「イギリス 緑の庶民物語」
『イギリス緑の庶民物語 ―もうひとつの自然環境保全史 ― 』
平松 紘 (著) (1942~2005)(ひらまつ・ひろし=青山学院大教授、環境法)
内容紹介
どうしてイギリスには緑が多いのか。どうしてカントリーサイドが成り立っているのか。緑にはどのような意味がこめられているのか。イギリスにおける公園やカントリーサイドの成り立ちと今日に及ぶ問題を考察する。
『イギリス緑の庶民物語 ―もうひとつの自然環境保全史― 』
目次読書
プロローグ
どうしてイギリスには緑が多いのか。どうしてカントリーサイドが成り立っているのか。
イギリスの緑は二次的自然である。(人が作った緑)
身近な自然環境への関心の高まる都市化した現代
イギリスの経験の常識は貴族、「ナショナルトラスト」の歴史で語られる
それとは違うアプローチ、「他人の土地に立ち入る庶民の権利」の求め
本書での「庶民」は幅広い:20世紀の中産階級と労働者階級の流動的な構成)
本書の「緑」:公園、緑地、牧草地、森林、原野、湿地
庶民の緑へのアクセスがモティーフ
緑を求めるイギリス庶民の経験を洗い出す(庶民に焦点を置いた環境学)
一 内なる楽園を求めて
1.ロンドンの公園の二つの型
(1)ロンドンの公園
ロンドンの公園は1700個(面積の11%)
そのほかの「スクエア」「ガーデン」(広場、小空間)を合わせると22%
「オープンランド」(空地)も合わせると30%
「イギリスの肺」(18世紀末政治家大ピット)空気清浄・騒音対策
貴族型公園 「王立公園」(王家所有環境省管理):全ロンドンの公園面積の18% 「スクエア」「クレセント」「
サーカス」
庶民型公園 「市民公園」80%
(2)貴族型公園の形成
庭園デザイン イギリスの公園の成り立ちは、庭園デザインの歴史
デザイン文化はギリシアやローマの都市建設に原点を持ち、中世ヨーロッパの城壁都市を経て、ルネッサンスの庭園デザインとなる(p25)
ギリシア:ポリスの守護神殿を中心に、戦士で地主であった市民の政治活動の舞台である広場をつくりあげ、その広場は神々を飾る花壇をともなった 「楽園」(パラダイス)シーザーはローマ市民に庭園を遺贈
ギリシアもローマも、土地を支配することが市民権 国政参加も土地所有が基準
北西ヨーロッパの中世都市:壁に囲まれた聚楽としての城壁都市 各々の都市の独立を示す防衛権と市場権を示す それぞれの都市が独自に法を持っていた 広場や市庁舎には、「法」を意味する「正義の女神」(ユースティティア)像が建てられたり飾られたりするようになる
次いで、イタリア・フランス庭園の「美」を求めての庭園デザイン史の始まり
ベルサイユ宮殿の優美な整形庭園はルネッサンスのテラス式デザインの模倣
イギリスの庭園計画は17世紀清教徒革命以来急速に展開 フランスのル・ノートルとイギリスのイニゴ・ジョーンズによるルネッサンス庭園の開花 代表的庭園は、ハンプトン・コート宮殿(王立)、グリニッチ公園(1433)
18世紀後半、格式ある装飾を重んずるフランス式整形庭園から自然を重んずるイギリス式景観庭園への転換 ピクチャレスクと呼ばれる風景庭園の運動
フランス式庭園の地平線までにも達する雄大な見通しは共通するが、造形「美」の追求でなく、自然の中の「快適さ」を求めた根底思想
(3)王立公園の解放
ハイドパークとセント・ジェームズ・パーク・・17世紀後半期に開放
ハイド・パークの歴史はイギリス市民革命の歴史でもある
貴族が強引に囲い起こんだ土地が「パーク」(狩猟地・果樹園)
自然・景観型庭園の展開 ・・
18世紀からの発達
チスウック・ハウス庭園(ケントの様式)
デンソン公園(東インド会社の支配人の財産だった)、ホーランド公園
植物公園の意義
15世紀にさかのぼる植物学の生成とともに展開した整備
キュー・ガーデンの解放は遅かった 1770年代に野生種の植物学公園となったが解放は1969年
チェルシア・フィジック庭園はキューガーデンより早く、1673年に植物学のフィールドとして創設された
大公園(シオン公園)16世紀中葉にイギリス植物学の父 ウィリアム・ターナー(William Turner、1508- 1568)によってイギリス最初の植物園として設立 今もノーサンバーランド伯爵(Earl of Northumberland)の私有庭園だが世界一の蝶サファリで1981年解放されている https://www.syonpark.co.uk/
2.庶民公園の闘い
(1)「内なる楽園」を求めて
最初の公園ムア・フィールズ公園
ロンドン最初の公園 ロンドン城壁外 ムア・フィールズ(今は無い) ムア=湿地 軍事訓練や弓の射場 として使われてきた 1605年土地の所有者フィンズ家が土地の借地人と市民の争いに嫌気がさし市に寄贈
旧市内の人口増
弓を射る権利あるいは「保養と健康のために散歩」する慣習的権利がみとめられていく ロンドン市1625年整備の散歩道はフィンズ家から贈られた土地を超えて外へ外へと延びてゆく道として利用された
19世紀ロンドンの社会状況
二度目の人口パニック1801年225万人 1901年(453万人+旧市外=)660万人 中心部から5~15キロの郊外に「エステート」(99年の住居利用補償)ガーデニングの楽しみ「内なる楽園」小市民的庭造り文化が開花 それに並行して伝統的公園と庶民公園の入れ替わりが一気に進んだ 身近な小さな自然を楽しむ イギリス人にとってのガーデニングは、広い自然の緑との調和で初めて完璧なものになる『自然美』
(2)オクタビア・ヒルの闘い
「施し」を否定して
19世紀後半の住宅改良運動で有名な社会思想家オクタヴビア・ヒル女史
貧民街での小さな公園づくり活動 衛生問題への対処療法でもあった
「土地は所有でなく利用すべきもの」庶民のための(休養やスポーツのために「開かれたスペース」をいかに守りいかに創造するか、実践と啓蒙
イギリス人特有の土地への愛着心、庶民の隣人組織が共同して国土を占有する、共有財産としての土地空間への願望
(3)「庶民型公園」の展開
ヴィクトリア公園の解放(1840年) 社会民主同盟やチャーチスト運動のための公開討論の場所であった 下町における政治的覚醒の場
社会秩序の安定化を目指して
バターシア公園(コモンズ=入会地)19世紀には貧民層の集会所と化していた
ヴ区とリア公園と同じ国王の園芸師ベネーソンによって整備され1858年に開放
フィンスバリー公園、ソウスワーク公園 工業立地化をもくろむ地主に対する住民の反感を首都圏建設局(1855設立)がくみ上げた
ブラック・ヒース ロンドンへの入り口 イギリス史を飾る農民一揆の発祥地 (1381ワット・タイラーの乱、1450ジャック・ケイドの乱)15世紀の半ばに狩り場として40%が囲い込まれグリニッチ王立公園に、残りがブラック・ヒース公園に 対照的な光景
3.コモンズ公園
(1)コモンズの公園化
ウィンブルドン紛争
19世紀後半に展開したコモンズの公園化 1866年首都圏コモンズ法
運動の担い手ヘンリー・ピーク卿新しい時代認識、地主の所有権と農民の放牧・採取権における私的性格を否定 私的所有権を前提とする資本主義の論理から言っておかしい しかし自然美への願望とリベラル性に裏付けられた「公の精神」が囲いのない自然公園を仕立てた ウィンブルからからの発信
(2)コモンズのオープンスペース化
1866年の首都圏コモンズ法
イギリスの近代農業革命 18世紀初頭からの土地囲い込み(エンクロージャー)に始まる 農民の利用と権利を排除しようとした コモンズの解体の進行
1593年法 「ロンドン中心から3マイル(約5キロメートル)以内にあるコモンズをレクリエーションのために保全すべべし」(囲い込み禁止)
1866年「首都圏コモンズ法」首都圏でのコモンズの囲い込みを全面禁止 イギリスにおけるゆるがない歴史的運動となった 郊外のコモンズを、オープンスペース公園として確立
コモンズ公園の広がり
ヘイズ・コモン公園 プラムステッド・コモン公園 コモンズは権利者の祭りの場
(3)コモンズ公園の意義
私的所有権の闘い 「利用権」に対する合法的な私的「所有権」の実行
特定の農民だけが権利を持つコモンズに、なぜ、もともと権利者でない住民や公衆が立ち入ることになったのか・・放牧権や伐採権を内容とするコモンズでの権利がだんだん意味のないものになっていた事態による スポーツやレクリエーションに興ずる場として、コモンズの保持を主張 農業のためというより隣人と楽しむ権利 よそ者も対等
収益権から公益権へ 「コモンズのオープンスペース化」
日本とイギリスのコモンズの違い
日本の入会権 バブル期にリゾートマンションやゴルフ場のために売却され消滅 単純意味での資本主義の当然の結果 日本の入会地(共有地)
二 カントリーサイドを求めて
1.カントリーサイドの原点
(1)都市からカントリーサイドへ
イギリスらしさ ロンドンはイギリスではない、とよく言われる
都市化への反感と地方カントリーハウス 中世ゴシック様式 田園ジェントルマンへの願望 立憲君主制
16世紀末~17世紀前半 建築抑制規制(貴族趣味的な個別型住宅へのこだわり)の失敗 18世紀貴族はカントリーサイドに金をかける 1700人の土地貴族がイギリス全土の約40%を独占していた プロパティ=土地所有、プロプリティ=あるべき姿 カントリーサイドを求める社会運動:19世紀のロマンティシズムが原動
(2)「フォレスト」の展開
ウィリアム・モリスの原風景 オクタビア・ヒルの「カール協会」に属す ヒルの「自然美」によるコミュニティ公園の創造こそが、ユートピア的理想郷の一つ 古建築物鉾の思想
エッピングの森(ロンドン近郊最大の森林公園) グリーンベルトの一角
フォレスト保全のからくり ロビンフッドの時代には全土の三分の一ないし四分のⅠあった フォレスト法という独自の法体系が適用された地域 農民のフォレスト法によって保証されたささやかな権利→森林公園になったきっかけ
ニュー・フォレスト 貧民農民の豚放牧権
ダートムア・フォレスト 1958年「ダート・ムア・コモンズ法」に結実 公衆の歩行と乗馬の権利
(3)荘園の裏地から
バーカムステッド紛争 公衆のレクリエーション権を確認 「ナショナル・トラスト」地として保全
コモンズの保全もレクリエーション権から 1876年「コモンズ法」:全国のコモンズの管理を、主としてコモンズでの権利者からなる保全委員会に託し、レクリエーション権を周辺住民に保証する
2.緑地とレクリエーション・スポーツ権
(1)緑地
緑地とは「グリーン」「ビレッジ・グリーン」「タウン・グリーンズ」オープンスペース、アメニティ(快適な生活)の場、イギリス田園における共同体生活の今も損なわれていない誌的・古典的シンボル
緑地の分布 ロンドンから南部・北東部の州に半数がある ヴァイキングやデーンの影響が大きい地域にはほとんどない(東ミットランド、イーストアングリア) 高度な産業革命と徹底した囲い込みが小別をもたらした(北部のレスター州ヨーク州)
緑地の機能 敵の侵入から家畜を守る他の中心部の空き地での放牧、隣接地にサクソン墓地の存在
(3)緑地とレクリエーション・スポーツ権
レクリエーション(再創造)、スポーツの場としての緑地 中世から続く懺悔火曜日は遊ぶ日
緑地の法的保存 1857年「囲い込み法」1876年「コモンズ法」レクリエーションを慣習的権利として認める
祭りのダンスをする権利(村人)
(3)緑地のオープンスペース化
ワルトン・イン・ゴーダノ紛争 公衆一般の立ち入り権
今日の緑地形成 宝くじを半分の基金とする「千年王国緑地」 ウィリアム・モリスの森への郷愁が実現しつつある
3.「コモンズ
保存協会」とオープンスペース思想
(1)世界最初の環境団体「コモンズ保存協会」
「コモンズ保存協会」を取り上げる意味 1866年の「コモンズ保存協会」の創立が、イギリスから世界に発信する環境団体を先駆的に生む契機となった
「コモンズ保存協会」設立の動機 ヘンリー・オン・テームズ コモンズの囲い込みをいかに阻止しオープンスペースを拡大するか 法的な権利を確立していなことへのロンドン世論の不満を代弁
実力行使から訴訟闘争へ 会長ルフェーブル下院議員 弁護士ラウレンス
エッピングの森の保存 今日のイギリス財産法の基本法である1925年「財産法」での「近代所有権の公益性という精神の出発点
(2)オープンスペース思想
エッピング問題とJ.S.ミル(ご意見番)の存在
囲い込みは不法なり 囲い込みの根拠となっている1235年の「マートン法」の廃棄運動→1853年コモンズ修正法成立
「都市の子供のためにオープンスペースを」 ミルの思想が影響 ミルが設立した「土地保有改革協会」(イギリス土地改良運動の一翼) 自然美の追求
ヒルとルフェーブル オクタビア・ヒルの「カール協会」 都市部における美の普及:植林、聖歌隊の創設、排煙の制限、貧民家屋の花壇 1875年「コモンスズ保存協会」加入(ミル1876年死亡) ヒルの考えは共有権で収益権とは違った
(3)「コモンズ保存協会」と「ナショナル・トラスト」
「ナショナル・トラスト」の母 ルフェーブルは「ナショナル・トラスト」の創設に反対 「アクセス」に力点を置いた環境保全と「保存」に力点を置いた考え方の違い理論的かつ慎重な対応 1893年ハンター、ヒル、ロンズリーという「ナショナル・トラスト」の創設者三人が「コモンズ保存協会」の事務所で会合 1895年保存協会設立30年後 設立教会の実行委員9名のサインで正式登録「協会」の子
「ナショナル・トラスト」批判コモンズにおける国民のアクセス権の樹立に向けたアメニティ団体「オープンスペース協会」として存続
クリーンハイク 土地所有者に原っぱや山がオープンスペースであることを主張する行為 ナショナルトラストと協力関係であるが、元も忌憚のない批判を投げかけているのも協会:建築物の取得に手を広げることへの批判、公衆の享受に供しないトラスト地批判
「保存」か「アクセス」か 葛藤
三 歩く権利を求めて
1.歩く権利とは
(1)「歩く権利」の意味
「パフリック・フットパス」:イギリスの緑を語るに重要な言葉 カントリーサイドのシンボル 庶民が「歩く権利」を持つ歩行道を意味
なぜ「歩く権利」というか パブリック=公衆の要求と闘いがあってこそ歩行道が確認され、判例や法律によってl「歩く権利」が認められた 土地の多くが、私有地 資本主義社会に置け宇r、特異な土地制度 歩行道の周辺の自然環境を無視した開発が阻止される
歩く「権利」とは 他人の土地を通過する公的な権利 イギリスの第一次的な方は、法律(六法)ではなく判決(判例)
公道の種類 public right of way ドングリは「ナショナル・トレイル」のしるし
長距離歩行道 バースからチッピング・カムデンまでの「コッツウォルズ・トレイル」など 歴史とプラグマティズム国家的な観光事業の一環として位置づけられる
(2)フットパスの管理
「クマのプーさん」林の入り口の「木戸」 木戸こそが歩行道のシンボル
木戸や踏み段は所有者の責任 「家畜を守るための施設だから」
教区公道・パートナーシップ 1932年の「歩く権利法」は行動の監視を教区会にゆだねている
完全さが求められる「公道図」国家の代理機関「オーディナンス・サーベイ」によって4種類の図が刊行されている 「公道図」は法律文書
(3)「歩く権利」の矛盾
「歩く権利」と農業 農道でない 農民の不法行為
開発とフットパス 大土地所有者との軋轢 「ハイ・クロス事件」 景観アセスメント
2.歩け歩け運動とアクセス権
(1)「歩く権利」の歴史
公道の再発見 「ローマの道はすべてに通する」ローマ帝国時代、イギリスにおいても張り巡らされたローマン道路の再発見
難産の「歩く権利法」 推定による公道化難産 貴族の権利が強固 家族関継承的財産設定という法理 土地の囲い込みに対する抵抗の哲学
(2)歩け歩け運動
異常なハイキング・ブーム 地主層による攻勢、戦時体制の行動への圧迫、それによる紛争の激化は、むしろ「歩く権利」の確立への散策運動を刺激 推定による公道の成立要件を二十年とした「歩く権利法」1932年に成立 ユースホステルが1930年にできた
キンダー・スコット事件 (1932)ピーク地域の湿地帯へのアクセスが地主の狩猟の拡大によって侵害された 1954年にイギリスで3番目に多き国立公園に
世論の勝利
(3)アクセス権の展望
日本土地神話「遊休地」(閉鎖されている空地)
オープン・カントリーへのアクセス 権利でなく事実としてアクセスする
国立公園もイギリス式 「農景」と公衆アクセスの促進を優先 世界の国立公園像:基本的に野生生物の保護区 という考えとは異なる 国立公園の約75%は私有地 多元的な利用がなされている
今日のアクセス権論議
今も続く大土地所有者の存在 大貴族社会イギリス 民間団体「ナショナル。トラスト」の買い取り方式にも限界がある カントリーサイドの9割は私的所有 イギリスの全農地の四分の一を1500人の土地所有者が所有、森林の所有者の3分の2も個人 「ランブラーズ教会」のブックレウチ侯爵インタビュー 土地所有者と国民の隣人愛にある「ヒューマニティの歴史的遺産」としてのアクセス
アクセス法を求めて
21世紀の課題 土地所有者の負担になっている公道の管理責任を環境教育の充実によって散策者の責任に変えていく提言 イギリス。カントリーサイドの基本的価値「農景:をどう理解するか 土地所有者の論理と三作者の考え方は根底的に対立する 草木の採取やゴミ捨てなどのマナーの問題を含む都市とカントリーサイドの関係のありよう
3.「ランブラーズ協会」
(1)「ランブラーズ協会」の成り立ち 散策愛好家の主体的な運動を集約した中核団体 1935年生まれ 一種の南北問題 ロンドンの団体と北部の団体 山岳部や湿地帯の位置づけをめぐる考え方の違い
「協会」のルーツ 1824年「古歩行道保存協会(ヨーク市) 1879年「サンデー・トランプス」(耐久歩行クラブ) 昆虫学クラブ 自然史学も散策運動にかかわる
散策クラブ 小さな地域の散策グループの下からの連盟づくり 300の散策クラブと1200人の個人
(2)現在の「ランブラーズ協会」
「ランブラーズ協会」は環境団体か 会員の散策を通じて、カントリーサイドの景観を守るという姿勢 目にみえる環境運動でなくても、カントリー好きを背景にして地道に庶民の緑を守っているという事実
今日の「歩く権利」保全活動 ボランティア活動による「イギリス保全ボランティア・ロラスト」「グランドワーク・ファンデーション」
補説 ヨーロッパにおけるアクセス権
(1)ヨーロッパにおけるアクセス権の現状
現状についての誤解
フットパス(歩行道)やトレイル(長距離散策道)は「歩き回る権利」で、奥に自由には行ったりキャンプしたりすることは法的に認められていない
多くの日本人は、公有地であれ私有地であり、実際には自由に入って茸や草花を取っている。どの土地が誰の所有であるかも 意識しない。土地所有者が追い出したら、ただ引き下がる。権利問題として意識しない。
アクセス権の現状に対する北ヨーロッパと南ヨーロッパの違い ローマ法とゲルマン法のどちらを取るかあるいは混在させるかの葛藤と妥協による
北ヨーロッパにおけるアクセス権、ローマ法的な近代的所有権制度が確立していることを前提とする その絶対的な所有権をゲルマン法的な思想によって、どの程度「制限」するのかという問題になる =「所有権は侵害されない」の原理を前提としてアクセス権を黙認する制限が加わる
参考文献ピックアップ
S.E.ラスムッセン、兼田啓一訳 「ロンドン物語」(中央公論美術出版 1987 原著1934)
L.C.B.シューマン 社本・三ツ星訳「ヴィクトリア時代のロンドン」(創元社 1987 原著1973)
小池茂「英国鉄道物語」 (晶文社 1979)
R.J.ミッチェル松村赳訳「ロンドン庶民生活史」(みすず書房1971 原著1958).
P.トンプソン 白岩和也「ウィリアム・モリスの全仕事」(1994年岩崎美術社)
川崎寿彦「森のイングランド」(1987年平凡社)
D.スーデン 山森訳「イギリスの田園生活誌」(東洋書林1997 原著1991)
小林章夫「田園とイギリス人」(NHKブックス1997)
中川裕二「英国式自然の楽しみ方」(求龍堂1996)
タキトゥス「ゲルマーニア」(岩波文庫)
イングランド国立公園とトレイル英国には15の国立公園と同じ数のナショナル・トレイルという軸になるフットパスがある。
エピローグ
イギリス緑の物語は、王権を中心とした貴族権力による庶民抑圧が庶民の生活苦空間の在り方を変え、他方、それに抵抗する庶民の慣習と知恵が、窮地に立ちながらも緑を守ろうとする歴史
18世紀から19世紀半ばの土地囲い込み(エンクロージャー)によって、貴族が土地を独占していった。
工場を建て住宅を建て資本主義の社会を作り出したが、庶民の生活と休息の場を奪った。
狭い間借で家族を養わなければならなかった庶民は、大好きなフットボールとハイキングの場所を求めた。こうして貴族の庭園だけでなく、過酷な労働をいやす庶民のための公園がいくつかできた
カントリーサイドが「公衆に開放された緑の空間」を意味するオープンスペースになっていった
中世からの慣習的権利によって、庶民が家畜を放牧し薪木を伐採する土地であった「コモンズ」が18世紀から19世紀にかけての囲い込みの対象であった。だからこそ19世紀後半に起こった囲い込みに対する反対運動は、まずはコモンズを守る運動であった。その運動を支えたのが、1865年に設立された世界最初の国民的環境団体である「コモンズ保存協会」であった が、時代の変化を反映して、コモンズは生産からレクリエーションの場に転換していた。庶民のリクリエーションへの求めが、現在のアクセス権論議につながる。19世紀からの散策運動を背景に成立した1932年の「歩く権利法」は、カントリーサイド特有の景観=農経を形作っているフットパス(歩行道)を確認し、創造した。資本主義の鉄則である「財産権の自由」に国民的なレクリエーションの要望による「制限」をという考えである。