「暇と退屈の倫理学」
小林秀雄賞受賞の論考 ・・・・以下は目次読書
まえがきの「俺」は・・・小林秀雄の初期小説を思い出させる・・
「暇と退屈の倫理学」(増補新版)
〇國分功一郎/wiki (1974年 - )
目次読書
まえがき
序章 「好きなこと」とは何か?
第一章 暇と退屈の原理論
第二章 暇と退屈の系譜学
第三章 暇と退屈の経済史
第四章 暇と退屈の疎外論
第五章 暇と退屈の哲学
第六章 暇と退屈の人間学
第七章 暇と退屈の倫理学
結論
あとがき
付録 『暇と退屈の倫理学』新版によせて
〇國分功一郎/wiki (1974年 - )
申しわけないが、一カ月たっても読み終えていない。読み始め非常に面白く、『高校生のための現代思想エッセンスちくま評論選』の方も読んだのだが、目次を書き終えたところでちょっと間を置きます ~休憩 ~〈20170922〉
再開(20171029)
抜き書き
まえがき
序章 「好きなこと」とは何か?
バートランド・ラッセル(1872-1970) 『幸福論』(1930)←おかしい。打ち込むべき仕事を外から与えられない人間は不幸である?ジョン・ガルブレイス(1908-2006) 『豊かな社会』(1958)供給が需要に先行する→そもそも私たちは、余裕を得た暁にはかなえたい何かなど持っていたのか。
ウィリアム・モリス(1834-1896) 「民衆の芸術」(1879講演)暇な生活を飾ること←生きることはバラで飾られねばならない
アレンカ・ジュパンチッチ(1966~) 価値観の相対化 ←大義のために命を捧げることすら惜しまないものがうらやましいと思える
第一章 暇と退屈の原理論
―ウサギ狩りに行く人は本当は何が欲しいのか?
パスカルの気晴らしに関する議論を出発点にした原理的な考察
ブレーズ・パスカル(1623-1662)←パスカルは皮肉屋 その 「気晴らし(ディヴェルティッスマン)」の分析を出発点に
ラース・スヴェンセン(1970~)『退屈の小さな哲学』でパスカル=「退屈についての最初の偉大な哲学者」
「人間の不幸の原因は部屋にじっとしていられないために起こる」人間の運命=「みじめ(ミザール)」(具体的) 熱中できること、自分をだますこと パスカルの解決策は(拍子抜けするかもしれないが)神への信仰
フリードリッヒ・ニーチェ(1844-1900)『悦ばしき知識』「神は死んだ」 神なき人間のみじめさ 「何としてでも何かに苦しみたいという欲望」
レオ・シュトラウス(1899-1973) 緊急事態・緊張の中にある生だけが本来の生と考える若者 ファシズムを欲した苦しみたいという欲望
(ここまではパスカルの考察をもとにした議論)
ラッセル『幸福論』「動物は、健康で、食べるものが十分にある限り幸福である。人間も当然そうだと思われるのだが、現代世界ではそうではない」:原因のわからない不幸への「一つの治療法」
マルティン・ハイデッガー(1889-1976 20世紀大陸系哲学を代表 ナチズムに加担) 退屈論の最高峰 ←ラッセル(20世紀英米系分析学を代表 反ファシズム運動家)によれば、ハイディガー哲学は、哲学ではなく「詩」である
この二人の異なる知性が、同じ時期に全く同じ(物言わぬ霧のような退屈への)危機感を抱いた
ラッセル:退屈の反対は快楽ではない 退屈とは今日を昨日と区別してくれる「事件」が起こることをくじかれたもの 熱意?(幸福とは熱意を持った生活を送れること)ラッセルの結論、幸福の秘訣とは、あなたの興味をできる限り幅広くせよ。そしてあなたの興味をひくく人やものに対する反応を、できる限り友好的なものにせよ。(積極的な解決策)←すばらしい結論だが何かが足りない 裕福な国の若者と発展途上国の働く若者を比較する視点がまちがっている 不幸に憧れてはならない
スヴェンセン:退屈が人々の悩み事になったんはロマン主義のせいだ 前近代社会においては一般に集団的な意味が存在し、個人の人生の意味を集団があらかじめ準備して与えてくれた 近代以降このような意味体系が崩壊 ロマン主義者は生の意味は個人が自らの手で獲得すべきと考える そのようなものが簡単に獲得できるはずはない スヴェンセンの結論はロマン主義を捨てること(消極的な解決策)
第二章 暇と退屈の系譜学
―人間はいつから退屈しているのか?退屈は人間と切り離しがたい現象である
退屈と歴史の尺度 人類史400万年 遊動生活 定住約1万年前中緯度帯(森林化)で始まる 西田正規「定住革命」説(定住中心主義への批判)定住が先食糧生産はそのあと 強いられた定住生活 そうじ革命ゴミ革命トイレ革命 社会的不平等の発生 遊動生活がもたらす負荷こそは、人間の持つ潜在能力にとって心地よいものであったはずだ←人類の生活様式の変化 「暇と退屈の倫理学」という一万年来の課題の発生
ハイデッガー「建てる 住む 思考する」:人間であるとは、死すべきものとして地上にあることであり、それは住むことである ←定住中心主義だが、「住むことを初めて学ばねばならない」という問いかけは 無縁ではない
第三章 暇と退屈の経済史
―なぜ”ひまじん”が尊敬されてきたのか?暇:客観的条件に関わる
退屈:何かをしたいのにできない感情や気分
ソースティン・ヴェブレン(1857-1923)『有閑階級の理論』(1899): 有閑階級は人類が「原始未開状態」(平和的)から「野蛮状態」(好戦的)へと移行する際に発生した階級である 有閑階級は所有という考えが発生すると同時に生まれた 暇はステータスシンボル 「顕示的閑暇」暇の見せびらかし 階級差 不平等
凋落した 暇の見せびらかしの代わりにあらわれたのがステータスシンボルとしての消費 アドルノのヴェヴブレン批判:ヴェブレンはピューリタン的で額に汗して労働することだけが幸福をもたらすのであり、文化などは浪費に過ぎないと考えている ヴェブレンVSモリス
キケロ:品位あふれる閑暇 閑の中にいる人間が必ずしも退屈しているわけではない
ポール・ラファルグ(1842-1911)「怠ける権利」怠惰の賛美
→余暇は資本の外部ではない 労働者に適度に休憩を与え、最高の状態で働かせること、資本にとってはこれが最も都合がよい
→ ヘンリー・フォード(1863-1947) あたらしい型の管理 20世紀の高度経済成長を支えたモデル
アントニオ・グラムシ(1891-1937) フォーディズム的な労働の合理化と禁酒法(1920施行1933廃止)
ガルブレイズ『ゆたかな社会』(1958) 自分の欲望を広告屋に教えてもらう→(今や常識)納得できないことはがるブレイズの職業差別意識 、新しい階級」が新しい強迫観念を生むずさんな主張
フェルディナント・ラッサール(1825-1864) 「夜警国家」資本主義の特徴:生産と供給が要求に先行し、これを強制している
ポスト・フォ―ディズムの諸問題 効率よく売れない 消費スタイルの変化:同じ型の高品質の商品を大量に生産すれば売れた→高品質でも同じ型では売れない 不断のモデルチェンジを強いる 徹底した管理の対象となるような労働者を雇用できない
定住により「能力の過剰」という条件が生まれ、文化という営みを発展させたが同時にたえざる退屈との戦いをも強いられた
資本主義の発達で人々は突然「暇」を得た 人間と退屈との付き合いは人間の生活様式と関係
第四章 暇と退屈の疎外論
―贅沢とは何か消費生活と退屈との関係
必要と不必要 必要なものが必要分しかないことはリスクである
「贅沢」必要の限界を超えて支出が行われるときに、人はぜいたくを感じる
人が豊かに生きるためには贅沢がなければならない 消費と浪費の違い
ボードリヤール:消費とは「観念論的な行為」である 人は消費するとき、物に付与された観念や意味を消費するのである 消費されるためには、物は記号にならなければならない
記号や観念の受け取りには限界がない モデルチェンジ 個性 「オンリーワン」 到達点がない 選択の自由が強制される
マーシャル・サーリンズ(1930)「原初のあふれる社会」仮説 浪費できる狩猟採集民
現代の消費社会 生産者の事情で供給される 消費社会とは物が足りない社会 消費は贅沢などもたらさない 消費には限界がないから延々と繰り返される 満足の欠如 終わりのない記号のゲームへと導く 『ファイトクラブ』(1999 デヴィッド・フィンチャー監督 エドワード・ノートン ブラッド・ピット「現代の若者はポルノよりブランドだ」 「現代の疎外」と呼ぶ事態 「疎外」の概念が「本来性」の概念と切り離しがたいがゆえに(強制と排除に至るから)危険視され用いられなくなった 本来性の概念とともに疎外の概念まで投げ捨て、現状追認の思想・哲学に
ジャン・ジャック・ルソー(1712-1778) 近代的な疎外の概念の起源 自然状態論:文明社会こそが人間に疎外をもたらしたと主張 所有物・秩序がないから邪悪なことをする条件がそろっていない 「もはや存在せず、おそらくは少しも存在したことのない、たぶん将来も決して存在しないような状態」(モデル) 「本来性なき疎外」概念
トマス・ホッブズ(1588-1679) ルソーと対照的に自然状態(→社会状態)を「万人の万人に対する闘争」であると主張 「希望の平等」不安 無秩序 自分の身を守るために全員が好き勝手をしているのを、全員で止めればいい「社会契約」(国家状態)
ルソー:利己愛(平等であるとの信念ゆえに生じる否定的な感情の総称)と自己愛
「本来性なき疎外」概念
G・W・F・ヘーゲル(1770-1831) 肯定的
カール・マルクス(1818-1883) 否定的 疎外された労働
フィリップ・パッペンハイム『近代人の疎外』
フェルディナント・テンニース(1855-1936)『ゲマインシャフトとゲゼルシャフト』(利益社会と共同社会)マルクス批判の典型的な兆候:ありもしない「本来的なもの」を探し続ける
ハンナ・アレント(1906-1975)『人間の条件』(1958) アレントの指摘では マルクスの労働の概念は労働と仕事を区別しなかった ジョン・ロック(1632-1704)に始まる混同とする
マルクスは「疎外された労働」について論じたが、それに代わる「本来の労働」を置こうとしているのではない
閑な期待靴は、消費と退屈おtの悪循環の中にある
この疎外は疎外論政党は(ルソーやマルクス)にならって、「本来性なき疎外」という枠の中で論じられねばならない
第五章 暇と退屈の哲学
―そもそも退屈とは何か?退屈論の最高峰ハイデッガー『形而上学の根本諸概念』(1929‐1930 大学講義原稿)硬いタイトル 分厚いが 恐れないでほしい
ハイデッガーの引用する ノバーリス(1772‐1801 18世紀ロマン派)の哲学の定義 哲学=郷愁 ハイデッガーの哲学は殻の感動に裏付けられた哲学である
気分を問う哲学 『存在と時間』不安という気分の分析
オスヴァルト・シュペングラー『西洋の没落』について、この本の時代分析は私たちを少しも「感動させない」という この書の流行にはそれなりの理由(「没落」の感覚を持っているということ)がある
結局、ある種の深い退屈が現存在(人間)の深淵において物言わぬ霧のように去来している 退屈こそが私たちにとっての根本的な気分である
退屈の二分類 退屈の第一形式:何かによって退屈させられる 退屈の第二形式:何かに際して退屈する
退屈の第一形式 時間をやり過ごすこと ぐずつく時間によって引きとめられている 退屈と主に台頭してく空虚放置へと落ち込まないために やるべき仕事をさがす 期待しているものを提供してもらえない
第一形式の退屈:物と主体tの間の時間のギャップ
第二形式の退屈:何がその人を退屈させているのか明確でない(気晴らしと区別できない退屈)最も身近な退屈
ハイデッガーが退屈の第二形式を発見したことの意義は大きい
退屈と気晴らしが絡み合ったこの形式を生きることは「正気」である
退屈の第三形式 「なんとなく退屈だ」(気晴らしがもはや許されないとわかっている)その中で人間は自分の可能性を示される その可能性とは「自由だ」
結論: 退屈する人間には自由があるのだから、決断によってその自由を発揮せよと言っている。
退屈するというのは人間の能力が高度に発達してきたことのしるしである。これは人間のしるしだから決して振り払うことができない。←最終的なハイデッガーの解決策はどうも腑に落ちない。
第六章 暇と退屈の人間学
―トカゲの世界をのぞくことは可能か?ハイデッガー:退屈こそは人間の可能性の現れである。人間は退屈できる。だからこそ自由である。決断によって人間の可能性である自由を発揮せよと説いた
ひなたぼっこするトカゲについて
太陽を太陽として、岩を岩として経験できるのは人間だけ
ハイデッガーの三つの命題 (1)石は無世界的である
(2)動物は世界貧乏(ひんぼう)的である トカゲにとって岩はひなたぼっこするための台である
(3)人間は世界形成的である
ハイデッガーは何とかして動物と人間を区別しようとした 人間に環世界を認めなかった 環世界を超越する存在としてしまった
ヤーコブ・フォン・ユクスキュル(1864-1944)『生物から見た世界』(1934) 「環世界 Umwelt」概念
ダニは三つのシグナルからなる世界を生きている
時間とは何か 18分の1秒以内で起こることは人間には感覚できない
盲導犬の困難 その犬の環世界を変形し、人間の環世界に近づけなければならない
人間の特性はその他の動物に比べて、比較的容易に環世界を移動能力を持っている
「環世界間移動能力inter-unwely-mobility」と名付け 人間と動物の差異について考えるための新しい概念として提唱したい
第七章 暇と退屈の倫理学
―決断することは人間の証か?セーレン・キルケゴール(1813-1855) 「決断の瞬間とは一つの狂気である」
「なんとなく退屈だ」の声から逃れるにあたり、日々の仕事の奴隷になることを選択すれば、第一形式の退屈が現れる。退屈とまじりあうような気晴らしを選択すれば第二形式の退屈が現れる。
ハイデッガーは決断を結論として導き出すためにかなり苦労している ハイデッガーの決断主義には重大な欠落がある
決断した人間はその後、どうなっていくのか?
第一形式と第三形式は一つの同じ運動の一部と捕えるべき
第二形式の特殊性 第二形式では自分に向きあう余裕がある この第二形式こそは退屈と切り離せない生を生きる人間の姿そのものである
アレクサンドル・コジェーヴ 『ヘーゲル読解入門』 「歴史の終わり」(人間の終わり): 人間の歴史が、何らかの目的に向かって突き進むプロセスだと前提したうえで、その目的が達成されてしまった状態のこと→歴史が終わったあと人間は動物になっていく 人間が終わった後もホモ・サピエンスという種は存続する 歴史以後の人間は動物化したアメリカ人になる(1958)
日本は鎖国期に約三百年にわたっていかなる内戦も対外戦争もない時代を生きたたぐいまれな国である。日本は歴史の終わりをすでに体験している。スノービズム:カッコつけの高度の洗練 歴史の終わり人間はみな日本人になって生き延びる(1959)
コジェーヴの勘違い(幻想):コジェーヴの言う「アメリカ人」や「日本人」はどちらも気晴らしと独特の仕方でまじりあった退屈を生きている
「人間の環世界」の中で大きなウエイトを占めているのが「習慣」と呼ばれるルールである
人間はものを考えないですむ生活を目指して生きているという事実
ジル・ドウルーズ(1925-1995)
人間がものを考えるのは仕方なく、強制されてのことである 考えることを引き起こすのは、何らかのショック(不法侵入)である。
ハイデッガーの生きた環世界の崩壊 晩年宇宙から映し出された地球んも映像を見て愕然としたという Erde(大地という意味と地球という意味がある)・・大地が地球というものになってしまった
ジークムント・フロイト(1856-1939) 快原理 生物が興奮量の増大を不快に感じるという事実
習慣は人間を一定の安定した状態に保つ 反復するから習慣が生じ、それによって快が得られるのである 人間は習慣を作り出すことを強いられている。習慣を作り出すとその中で退屈してしまう
結論
1.倫理学であるから やはり何をなすべきか言わねばならない→本書を読むことで既に何者かをなしている スピノザ(1632‐1677)と分かることの感覚 退屈と暇について自分なりの受け止め方を涵養していくこと
2.贅沢を取り戻すこと 物を楽しむための訓練 =人間であることを楽しむこと
(人間らしい生=退屈との共存を余儀なくされた生をどう生きていくか)
3.(人間が人間らしく生きることは退屈と切り離せない 環世界の崩壊と再創造が日常的に起こっている→)人間であることを楽しむということで、動物になることを待ち構えること
あとがき
本書で書いたことが、高校の時のホームスティでクリスチャンの女の子に言った、「自分のフィロソフィ―をつくっているところだ」といったフィロソフィー(俺はこう考えているのだが君はどう思う、と手渡せるもの)である
付録 『暇と退屈の倫理学』新版によせて
どう生きるかという話だったんだ・・
約35名次々出てくるそうそうたる人物名
ハイデッガー『形而上学の根本諸概念』など、訳も難解な本当に硬いタイトルの分厚い哲学書、それこそ退屈そうな恐れ多き書物であるが、・・ 恐れないでほしい、というのがやさしい。楽しめた。
lastModified: 2017年