- byM's Bookshelf 2015 -

『声の文化と文字の文化』を読む

ORALITY AND LITERACY
The Technologizing of the World


ウォルター・J. オング (著),
(翻訳) 林 正寛 , 糟谷 啓介 , 桜井 直文
藤原書店 (1991)
Walter J. Ong (原著),1982 (en.Wikipedia:司祭。セント・ルイス大学 1912-2003)

内容(「BOOK」データベースより) 「書く」ことと、印刷およびエレクトロニクスの技術が、ひとびとの精神、文学、社会のうえにどのように影響を及ぼすか。本書は、文学と思考のなかにごく最近まで重く沈澱していた声の名残りをあとづけ、知的興奮をさそう新しい発見をとりあげる。その発見は、ホメロスの詩や現代のアフリカの叙事詩、およびその他の世界中の口承文芸に関するわれわれの理解を書き改め、哲学的、科学的な抽象思考の発生に関する新しい洞察を与えてくれる

【目次】

序文

話されることばに適用された最初の技術によって、ことばの表現と思考とにもたらされた違い。印刷から電子的なコミュニケーション(エレクトロニクス)の時代に移ってはじめて、われわれは注意を向けるようになった。書くことの発展が、かっての、もっぱら声として機能していた文化の中にもたらした違い、について・・
それは、人類の生活の中で生じた最も重要な移行の一つ。


文学や哲学や科学の思考と表現において当然のものと思われてきた特徴の多くは、決して人間存在自体に生まれつき直接に備わっているものではない
書くという技術が人間の意識にもたらした手段によって生み出された特徴である。
声の文化(primary oral culture)と手書き文字の文化(chirographic culture)を比較することは有益。その間にある「心性mentarity」の違い
ホモサピエンスが地上に出現したのは3万年前、最初に「書かれたもの」が現れたのは6千年前(p7) 本書の焦点:ことばの声としての性格(オラリティー)と書くことwritingの関係

me年代の数字はゼンゼン読み流してもいいことだろうが、4章のp176とはずれているようだ

第1章 声としてのことば

文字に慣れた精神と声の文化に根差したその過去

現代言語学の父ソシュール(1857-1913):最も肝心なのは口頭での話でそれが、、すべてのことばによるコミュニケーションを根底で支えているもの。
書くことには「便利さと欠点と危険」が同時に付きまとう、と述べたが、まだ書くことは口頭の話の補完物と考えるにとどまった
ヘンリー・スィート(1845-1912):音素論の研究:語は、文字から組み立てられているのではなく、音素(音単位=意味分別の機能を果たすもの)から成り立つ
読み書きのできる人の書き言葉と話し言葉でなく、一次的な声の文化、すなわち、書くことを全く知らない人々の声の文化→応用言語学と社会言語学(のテーマに)例;ジャック・グディ:『野性の精神の飼育』(Goody1977)
文字と無縁の、声の文化に根差した思考表現と表現様式の違いにはっきり気がついたのは、言語書くではなく、文学研究でさきがけは、ミルマン・パリ―(Parry 1971)で彼は若くして世を去ったがエリック・A・はブロック(Habelock 1963)らによって補完された。(p22)
言語とは、圧倒的に声に依存するもの、大半の言語は、書かれることなど一切なかった、今日の3千の言語で文字をもっている言語は78(p24)

書くということは言葉を空間にとどめることである。総数rことによって、言語の潜在的な可能性がほとんど無限に拡大し、思考は組み立て直され、そうした中である少数の方言(地域言語)が「文字言語grapholects」(文字を持った言語)になる 。(:Haugen 1966)(p25)
ユーリィ・ロトマン(Lotman 1977): 「二次的なモデリング・システム(表現法)」・書くことは、声としてのことばの正確なしには不可能(p26) 

言語研究は、声としてのことばの性格よりむしろ、書かれたテクストに注意を集中してきた。つまり、研究するということそれ自身が、書くことに関係があるからである
厳密な意味での研究、つまり、順を追う分析の展開と言う意味の研究が、書くことの内面化とともに可能になる時、文字を身につけたものがしばしば最初に研究するものの一つは、言語それ自身とその用い方である。(p27)
古代ギリシア人の間で、レトリックという細心に練り上げられた膨大な技術は、包括的な学問的主題であり続けた。
そのもとのギリシア語のテクネー・レートリケ―(話の技術speech art)、公衆の前で話すこと(public speaking) :例アリストテレス『弁論術』
声としてのことばは書くことによってはじめから退けられたのではなく、書くことによってその価値を高められた。(p28)

me初めの先史という言葉(p20)に注目:先史=書くことによって言葉の記録が可能になる以前の生活


「口承文学」というおかしな言いかた

学者たちがテクストに関心を集中させたことから、イデオロギーにゆがめられたいくつもの帰結が引き出された。(p30)
今日の高度技術文化の「二次的な声の文化」の装置は、 .書くことや印刷に依存しないことには存在することも機能することもできない。

声で書かれたものoral literature,というおかしな概念。形容矛盾、拡大使用されてきた術語
書かれたものの1変種に還元してしまう。
「文字以前」という術語、「口頭による発話のテキスト」

meわれわれは「文学」という術語を持っている(p31)に注目


第2章 近代における一時的な声の文化の発見

口頭伝承への初期の注目

初期の言語学者たちは、話される言葉と書かれる言葉は違うという考えに抵抗した。ソシュールは、書かれるものは、話される言葉をたんに視覚的な形に再現するにすぎないという見解をとった。(p43)


ホメロス問題

純粋な声の文化も洗練された言語芸術の諸形態を生みだすことができる。(ラング)
盲点
ミルマン・パリ―(1902-35)


ミルマン・パリ―の発見

ホメロスの詩においては「語や語彙の選択が六脚韻(hexameter)の詩行という形態に左右されている」声の文化の中で作品が口頭で組み立てられる仕方は、文字で書かれることによって作品が組み立てられる仕方とは違う。
ホメロスの詩に特有なほとんどすべての特徴は、口頭で組み立てらら得るという制作方法によって強いられたエコノミーによるものである、という発見。(p51)
一般に思いこまれてきたのは、韻律にふさわしい言葉は、ひらめくようなほどンんど想像できない仕方で、詩人の創造力にいわばおのずから姿をあらあらわす。
アレクザンダー・ポープ(1688-1744)
ロマン主義の時代には一層独創的であることが要求された。「天才」
ギリシア語のラプソデーデイン(rhapsoidein)=「歌を綴り合わせる」・・ホメロスは、独創者ではなく、組み立てラインの労働者。
紋切り型のきまり文句formula、紋切り型のテーマ
ホメロスの二つの叙事詩は、それまでに何世紀もかけて形作られ、そして手を加えられてきた末に、紀元前700年から650年にかけて、あたらイシギリシアのアルファベットによって書きとめられた。(p56)
エリック・A・ハブロック(Havelock1963) 声の文化に属する人々の認識世界noetic worldないし思考の世界全体が、きまり文句的な思考の組み立てに頼っていた。 言葉が声であるような文化においては一旦獲得した知識は、忘れないようには絶えず反復していなくてはならない。固定し、型に従った思考パターンが欠かせなかった。
しかしプラトン(472?-347 B.c.)の時代までに、ある変化がすでに起こっていた。
この時代までにギリシア人は、書くことを自分のうちに実効的に内面化interiorizeしたからである。
ギリシアのアルファベットがおよそ紀元前730年から700年ごろに疲れてから、ここに至るまで数世紀が立っていた。記憶を助けるきまり文句の中にではなく、書かれたテキストの中に、知識をたくわえる新しい道が開かれたのである。このようにして、精神は解き放たれて自由になり、より独創的で抽象的思考を目指すことが可能になった。(p57)
この新しい世界の中では、伝統的な詩人のだれもがし愛用していたきまり文句や陳腐な常套句など、もはや、ものをつくり出すことの邪魔になる、時代おくれの遺物だったのである。
ホメロス時代のギリシアと、プラトン以降の哲学が表現しているすべてのこととの関係は、たとえ表面上どんなに親密で連続的であるように見えても、実際には、深い対立関係にたっていた。(p58) プラトンがそれを求めて闘った哲学的思考とは、この書くことに全面的に依存していた。

ディヴィッド・E・バイナム(Bynum 1978)の「森の魔人(ダイモン)」=パリーの言う「本質的な観念」は明瞭にそのまま言葉にい表せるものではなく、大部分無意識の中であるまとまりともつような一週の仮構的なコンプレックス(複合観念)
「二つの木のパターン」(Two Tree pattern)と呼ぶ基本的な仮構;「別離、餞別、予測しがたい危険の観念」が一方の木(緑の木)のまわりにあつまり、「合一、返礼、助け合い」が他方の木(乾いた木、切り倒された木)の周りに集まる。口承物語に特有な「基本的な仮構」
フォーリー(Foley 1980):なにをもって決まり文句とするかとか、それはどのような働きをするのかということは、個々の伝統によってさまざまでありうる。しかし、あらゆる伝統に共通して、「きまり文句」という概念を有効たらしめている広大な地盤が存在する


その後の関連研究 

ハブロック:『プラトン序説』(1963書くことがもたらしが思考の構造変化とギリシア哲学の開始開花に互いに緊密に結びついていたか
『聖四のリテラシーの起源(Havelock1976)ギリシア人の間で分析的な思考が優勢である原因を、彼らがアルファベットに母音字を導入したことに記している。
音声というとらえどころのない世界を、抽象的で分析的なそれでいて視覚に訴える形でコード化するという新しい段階に到達した
セム人の手になる最初のアルファベットは、子音字といくつかの半母音字だけから成り立っていた。
マクルーハンは、ジョイスが先見の明によって気づいていた耳と目という二極性に注目し、 格言風の、ご託宣のような多くの提言により教養ある公衆の注意をひきつけた。
ジュリアン・ジェインズ(jaynes 1977) 書くようになったことが、原初の自意識に災いされていない「両脳性」の衰弱に手を貸すことになった


第3章 声の文化の心理的力学

力と活動としての音声ことば

「文字でひろう(見てしらべる)look up」という経験をした人間が一人もいない世界
音には静止画にあたるものがない
マリノフスキー(Malinowski 1923)言葉ー話されるもの=音として響くもの=力によって発せられるもの
名前はものに力を吹き込む⇔名前=レッテル文字)


知っているというのは、思い出せるということ━記憶術ときまり文句

声の文化においては、長く続く思考は、常に人とのコミュニケーションと結びついている。非常にリズミカルになり、それは思考そのものの実質をなしている。


声の文化に基づく思考と表現のさらなる特徴

(1)累加的additiveであり、従属的ではない

(2)累積的aggregativeであり、分析的ではない

(3)冗長ないし「多弁的copious」

(4)補修的ないし伝統主義的

(5)人間的な生活世界への密着

(6)闘技的なトーン

(7)感情移入的あるいは参加的であり、客観的に距離をとるのではない

(8)恒常性維持的homeostatic

(9)状況依存的sutuationalであって、抽象的ではない


声の文化に特有な記憶形成

言葉を記憶する熟練技能が声の文化において貴重な財産であること
パリー:六脚韻にあう語彙によって、正確な韻律に従う詩行を無限に作り出すことができた
ポリュメ―ティス(知某豊か)という形容句がなければ、 オデュッセウスが韻律の中にすんなりと収まらない:詩人は韻律の決まり文句を何千も持っていた
かって歌われた諸々の歌に対する口承詩人の記憶力は活発
声の文化に特有な記憶がテキストの記憶と甚だしく異なるのは、前者の記憶が多分にしんてい的な動作を伴っているという点である。


ことばに支えられた生活様式

「ことばに支えられた」文化とは高度技術文化と比べて、行動の手順や問題へのとりくみかたが、言葉を効果的に使うということに、したがって、人間同士のやり取りにずっと大きく依存している文化である。
共有的(集団的)
声の文化の中に出生きている人々は、分裂傾向(分裂病的妄想の体系化)を度はずれた外面的錯乱によって表す'文字に馴れた人々はそれを内面化する


英雄的で「重い」人物像と奇怪なすがたの認識的役割

声の文化に特有な認識のエコノミーから生み出されるのは、並外れた人物像
奇怪な姿、いつも決まった数でまとめること、記憶の便宜になるということは、絶対不可欠の条件
書くこと、さらに印刷が、かったの声の文化に基づく認識構造を次第に変質させていく
物語は、人間の日常的な生活世界に安んじて移り住むことができるようになる


音の内部性

移ろいやすさ。その時間との関係
聴覚は、内部に手を触れることなく、内部を指し示すことができる
視覚は分離し、音は合体させる。
内部性とハーモニー、つまり一つにすることa putting together
声の文化に基づく思考と表現の特徴:統合し、中心化し、内部を作り出す音のハーモニー(p152)「


声としてのことば、共同体、聖なるもの

読者を表す言葉には、「聴衆audience」に対応するような集合名詞や集団的な概念がない
内部を作り出す音声としてのことばの力は、人間存在の究極の関心である聖なるものに、ある特殊な仕方で結びついている。 神は人間に「語りかけるもん」であって、人間に書きおくるものではない
神のことばであるイエスは読み書きができたにもかかわらず、(ルカによる福音書第4章17節)何も書き遺さなかった
「文字は人を殺し、霊(話される言葉を運ぶ息)は人を生かす(コリント人への第2の手紙第3章16節)


ことばは記号ではない

デリダ:「書かれるまでにはどんな言語記号もない.
しかし、書かれたテクストモ亦声としての言葉を指し示していることを考えるなら、書かれたのちにも、言語「記号」なるものは存在しない。思考は、音声としてのことばに宿るのであって、テクストに宿るのではない。全てのテキストが意味を持つのは視覚的シンボルが音声の世界を指し示すからである。
手書き文字と活字に馴れた人々は、言葉は本質的に音声であるのに、それを「記号」として考えることを当然だと思っている。
言葉を記号と考えて、何の疑問を感じないわれわれの態度は、すべての感覚、すべての人間的な経験を視覚的に類似したものを考えてしまう傾向に基づいている。(p161) 時間をカレンダーや時計の文字盤のうえで空間のように扱われるならば、手名付けられるように見える。しかし、これは時間を時間でないものにしてしまうことである。
声の文化の中で生きている人間が、ことばを「記号」として、つまり静止している視覚的な現象として考えることはまずない。 ホメロスはことばについて語る時、「翼を持ったことば」という標準的な形容句を用いる。
書くことは、声の文化の中から出現し、声の文化のうちに、いつまでも抜きがたく根拠を持っている。(p163)
手書き文字文化と活字文化による偏見から逃れることは、想像もできないほど困難。るそーにはんろんして、かくことははなされることばのそえものにすぎないというおもいこみをでりだがしりぞけているのは、ただいい。しかし デリダのディスコンストラクション【脱構築】は文字を使う活動の中にまだとどまってている。 (Derrida 1976)(p163)

mep160の「シグヌムsignum』の説明に注目・・「記号sign」という語のもとになったラテン語は、ローマ軍の部隊がそれぞれの隊を一目で見分けるために高く掲げた軍旗のこと・何らかの絵画的デザインないしは図像で文字で綴られた語ではなかった。(Yates 1966)<
そうしたシンボルは「記号だったが、言葉はそう(記号)ではなかったのである。(p161)


第4章 書くことは意識の構造を変える

それだけで独立した話しという新しい世界

読み書きが身にしみついた人間とは、たんに生まれながらの力でなく、書くという技術によって直接ないし間接的に構造化されたその思考過程から生じているような人間
文字に馴れた人間literate mind ・・どんな発明にもまして、書くことは人間の意識をつくりかえてしまった。(p166)
書かれてしまった話は、ある種のそれだけで独立した話し、強情で言うことを聞かないのが、テクストの本性


プラトン、書くこと、コンピューター

プラトンの『パイドロス』に、今日コンピューターに対して世間でよくなされている反論と本質的には同じ議論が、書くことに対してなされている(p168)
=書くことは記憶を破壊する、外的な手段に頼るため忘れっぽくなる、書くことは精神を弱める、現実の話されることばは、自らを弁護できるが、書かれたことばにはそれができない
プラトンの立場の弱みは、自分の反論に影響力をもたせるために、それを書物に書いたこと
書くことも印刷もコンピューターもすべて、ことばを技術化するtechnologize the word ための方法である。
プラトンの哲学における分析的な思考は、書くことへの批判も含めて、書くことが心的過程に及ぼし始めていた影響があってはじめて可能になったのである。
プラトンの認識論の全体は、プラトン自身は意識していなったとしても、実際においては、かっての、声としてのことばに基づく生活世界の計画的な拒絶だった。(p170)
イデアidea(ギリシア語の見るに由来する言葉)、つまり形相form(見られたものとしての形)は資格に基礎をおいた語であり、ラテン語の「見るvideo』や「視覚vision」「可視的visivle」「ビデオテープvideotape」尚度と同じ語根から発している。
プラトンのイデアは声もなく、動きもなく、どんなあたたかみも、たがいに作用することもなく分離されており、人間の生活世界の一部では全くなく、そうした世界の彼方、はるか上方に鎮座している。
書くことに内在する驚くべき逆説の一つは、それが死と密接なつながりを持つことである。(p171)
死んだテクスト


書くことは技術である

プラトンは、書くことを外的ななじみのない技術と考えていた。今日までに我々は書くことを非常に深く内面化し、それを自分自身の一部にしてしてしまっている
書くことはは完全に人工的
自然な環境からの離脱(疎外)は、われわれにとって良いことでもあり、実際、多くの点で、人間生活を十字具させるためには不可欠<
技術は人工的である。しかしここにも逆説があるのだが、人工的であることは、人間にとって自然なのである。(p175)


「書かれたもの」ないし「スクリプト」とはなにか

現代人の知的な活動をかたちづくり、それに力を与えてきた技術としての書くことは、人類の歴史の中でのごく最近の発展だった。 人類の歴史5万年。真)の書かれたものは、シュメール人の間でやっと紀元前3500年頃に発展した(p176)
人類はそれまで何千年もの間,絵を描いてきた


書かれたもの〔スクリプトscript〕は多いが、アルファベットはただ一つ

スクリプトの起源は複雑。「ほとんどのスクリプトは、直接間接にある種の絵文字にさかのぼる
アルファベットは他のどんなスクリプトにもまして、音としての音を直接拾い上げ、音を直セル、空間的な等価物に還元している。
古代セム人に酔って発明され、古代ギリシア人によって完成された表音アルファべットは、音を視覚的形に還元するという点で、すべての諸体系の中ではるかに抜きん出た融通性を持っている。


文字文化のはじまり

魔術的な道具
職人文字文化、 書記職人文化scribal culture 特殊な熟練技能が必要な筆記道具


記憶から書かれた記録へ

テクストは、知識の堆積の中に「頭(見出し)heading」が必要だという感覚を採用する。つまり「章(chapter]はラテン語の「caput』に由来し、頭を意味する。ぺ時には「頭」だけでなく「足」もある。つまり、脚注footnoteのことである。
文字の単なる連続としてのアルファベットは、声の文化に特有な記憶術と文字による記憶術をとを結ぶ架け橋である。
チャート(相関表)は、思考の諸要素をたんに一列に順に並べるだけではなく、様々な十字型に交差した順序を作る。リストより一層、声としてのことばに基づく認識過程から隔たった思考の枠組みを表している。
ダイヤグラム(図表)を固定しておいて中の言葉を入れ替えるといったチャートの使いかたや、情報を整理する手段として何も書かれていない空間を利用すると言ったやり方・・・


テクスト的なものの力学

テクストのなかでは、ことははことば以外のものから孤立している、書かれた言葉を生産している人間もまた、孤立している。書くことは独我論的solipsosticな作業である。
日記においては、ある意味で話し手とその話しの受け手とを最大限に虚構することが必要なのである。<
私的な日記とは唯我論的な夢想であり、それは印刷文化によって形作られた意識の産物、17世紀まではそのようなものは知られていなかった(Boerner1969)


〔コンテクストからの〕へだたり、ことばの正確さ、文字言語、大量の語彙
書くことと声の文化の相互作用(一)━ レトリックと場所
書くことと声の文化の相互作用(二)━ 学術言語

学術ラテン語は幼児語をもたない。
書かれたものによって統御された言語、例えば、学術ラテン語と様々な日常五(母語)との間の相互作用については、まだ完全に理解されているとは言えない(p235)


声の文化の根強さ

声の文化から文字の文化への移行は、ゆっくりとしてものだった。知識や知的な優秀さは、書くことによって試験されることは決してなく、常に口頭での討論によって試験された。この慣習は19世紀まで続き、今日でも博士論文の審査にその名残をとどめている。(p237)
ルネサンスの人文主義は、近代のテクスト研究に基づく学識を作り出し、活版印刷の発展の原動力となったけれども、同時に、古代に耳を傾けることによって、声の文化に新しい生命を与えた。
レトリックによって学ばれたことばの熟練技能は、演説の中ばかりでなく、書くことに中にも利用されてきた。16世紀にはすでに、たいていのレトリックの教科書のは、伝統的なレトリックの五文科(発想、配置、修辞〔文体〕、記憶、年表)のうちから、「記憶」を取り除いた。(p239)
三つのR (読み書きそろばん reading,'riting,'rithmetic)は、本質的にレトリックに対立し、書物を相手にする教育であり、商売や家事に役立つ教育を表しているが、その三つのRが、伝統的な教育、つまり声の文化にもとづく、英雄的で、闘技的な教育にとってかわった。レトリックとラテン語が退潮し、女性たちが学問の場に進出、次第に実利へと向けられていった。(p240)

me『マクガフィー読本』1836年から1920年の間にアメリカ合衆国で1億2千万部出版された。『偉大な英雄【声の文化に特有な「重い」登場人物】が登場する「ことばのひびきを意識した」文学からの抜粋(Lynn 1973)という話の「朗朗と声を出す(p238)に注目・・


第5章 印刷、空間、閉じられたテクスト

聴覚の優位から視覚の優位へ

書くことによって思考や表現にもたらされた変化について、書くことによって思考や表現に及ぼされた影響は、印刷のよって強化されると同時に、変質されもする。'(p242)
口頭での話から書かれた話への移行は、本質的には、音から視覚空間への移行。視覚空間の使用に対する印刷の影響
エリザベス・アイゼンステイン『変化の要因としての印刷機』(Eisenstin 1976)印刷の個々の影響がいかに多岐にわたり、いかに膨大であったか。;印刷はイタリアのルネッサンスを永続的なヨーロッパのルネッサンスにかえたこと、プロテスタントの宗教改革を実現したこと、近代資本主義の発展に影響を与え、西ヨーロッパによる全地球の探検を実施し、家庭生活と政治を変え買ってないほど知識を広め・・・・
マーシャル・マクルーハン『グーテンベルクの銀河系』(McLuhan 1964)は印刷が意識に及ぼすもっと微細な側面の注意を向けている
(p243)
アルファベットの活版印刷:ことば(語)は単位(活字=別々の金属鋳型)からつくられる。たんに発言葉に組み立てられる以前にそうしたもの〔単位〕として存在している。(p244)
組み立てラインの最初のものは、印刷本を生産するライン
聴覚の優位は、初期(16世紀)の印刷本のタイトル・ページのようなところに顕著に表れている。
視覚的な一つの語の単位に無頓着
つまらない語(THE)が巨大な活字で組み込まれている


p247 図1 トマス・エリオット卿の「統治者」1534年London版(Steinberg1974 p154)

印刷されたものは手書きよりはるかに読みやすい⇔究極的には速読、黙読を可能にする。
テキストにおける著者の声と読者との間に異なった関係を打ち立てる。著者以外の多くの人間の手をわずらわせる。(p251) 著者の書き直しの分量の多さ。
手書き本の文化は、生産者指向producer-orientedである。筆者する一個人の時間の膨大な消費、中世の手書き本は略号で満ちている。
印刷は消費者志向consumer-orientedである。

空間と意味

ことばを空間の中に根づット順の作品が作りだされた
1 索引(index locorum場所の指示の略)・・言語資料が、以前と比べて洗練されしかたで処理されるようになった。アルファベット順よりパラグラフ(¶)がよりこのまれた
印刷以前の手が基本の文化絵に属する本にh、アタイトルページがなく、しばしばタイトルもない。そうした本はその「インシピットincipit(始まり 冒頭部分)」のことばでカタログに載せられている
2 本の内容とレッテル 印刷、本は一種の「もの」と見られるようになり、互いの複製品となる
文字のレッテルがつけられるようになったが、図像的なレッテルを求める要求もまだ根強かった。(p259) 極めて寓意的な装飾を施されたタイトル・ページが1660年ごろまで残存・・
3 意味を運ぶ版面 (Ivins 1953)手書きでは専門的な図絵は、図解の肝心な点をまちがって写してしまうことがよくある。印刷で「正確に反復できる視覚情報」が新たに生まれた。その帰結が近代科学。専門的な図版印刷と専門的な言葉による記述が、互いを支え向上させた。飛びぬけて視覚的な認識の世界(p261)
ウィトゥルウィクスの『建築書』は、曖昧なことでよく知られている・記述が全体的に成熟するのは、ロマン主義の時代、つまり産業革命の時代になってから・4.活字のつくりだす空間typographic space 空白部分が大きな意味をもつようになった。空間的な位置関係、複雑なリストやチャートを完全な精密さで大量に再生産できるようになった。文学におけるコンクリート・ポエトリーは、音としてのことばと活字のつくりだす空間との相互作用の究極。ハートマンは、コンクリート・ポエトリーとデリダのテクストを使った言葉遊びとの間の関係を示唆している。(Hartman 1981)デスコンストラクションも、たんに書くことよりも活字印刷に結び付いている(p266)


印刷のいっそう広汎な影響

印刷はレトリックと言うかっての技術を、結果的に、学問的な教養の中心から追いやり、数学的分析や、ダイヤグラムやチャートの利用を通して、知識の数量化を大規模に推し進め、それを可能にした。(p266)
印刷は、辞書が生まれる環境をを作り出し、「正しい」言語のための規則を打ち立てたいという要求を作り出した。18世紀に初めて英語の辞書が作られた。
印刷は、近代社会を特徴づける個人のプライバシーの感覚の発達の上でも、重要な因子となった。(小さくて持ち運びのできる本)
印刷はことばの私有という新しい感覚を作りだした。(p268)
古代のラテン詩人アルティアーリスは、プラギア―リウスplagiarius(鞭打つ人 人さらい 抑圧者を意味する語)を、他人が書いた物を自分で書いたことにしてしまうものを意味するために用いている。しかし、剽窃者plagiaristとか剽窃といううことだけを意味する特殊なラテン語はない。印刷がは10いまるとその初期から、最初の出版者以外のものが印刷本を再販することを禁じる勅許或いは特許がしばしば出されるようになった(例:リチャード・ピンソン 1557年にヘンリー8世の勅許)18世紀までには近代的な著作権法がヨーロッパの各国でつくられ始めた。ますます個人主義に向かう人間の意識の傾向に、印刷は大きく奉仕した。(p269)
ことばが、人間どうしの行動的なやり取りの中ではじめてその生を享けた時に宿っていた音の世界から、印刷は、ことばを引き離し、それを視覚的な平面に決定的に帰属させ、知識の管理のために視覚的な空間を、これまでとは違ったやり方で活用し始めた。印刷は、人間が自らの内面の意識と無意識的な資源をますます、もののようなもの、非人格的なもの、宗教的に中立的なものとして考えるようにとうながした。つまり、精神の所有物がいわば惰性的な心的空間の中に保管されているという感覚である。


印刷と閉じられたテクスト━テクスト間の相互影響

いんさtルはテクストが閉じられているという感覚sense of closureを我々が持つようにとうながした。認識の場が閉じられているという感覚は書くことによってうながされていた。発話と思考は、自分自身以外の何物にも関わりをもたず、自足したもの、完全なものとして提示される。印刷は書くことをはるかに超えている。(p270)
文学理論に置いては、印刷は、最後に、フォルマリズムとニュー・クリティシズムを生みだし、次のような確信を生みだす;すなわち、言語芸術の各作品は、いわば「ことばで描かれたイコン【図像】」である。印刷は、最後に、テクスト間の相互影響intertextuality(間テキスト性)という問題を生みだす。印刷文化が「独自性」や「創造性」というロマン主義的概念を生みだしたのである。(p274)
印刷によってはぐくまれたテキストが閉じられているという感覚と表裏をなしているのが、一定の視点でテクストが書かれるということだった。(Mcluhan1962) (p276)一定の視点と一定の調子が示していることは、一面では著者と読者との距離が大きくなったということ。他面では、著者と読者の間の暗黙の諒解が広がったということ(著者は読者が自分に合わせてくれるだろうと確信できるるようにあった)


活字以後━エレクトロニクス

エレクトロニクスは、書くことによって強化差荒れた言葉と空間との関わりを更に深めるものであり、他方では、二次的な声の文化という新しい時代の文化に意識を移行させている。電子的にテープ録音されたインタビューは無数の「対話」本や「対話」記事を作り出す。新しいメディア、新しい、わざと格式張らないスタイルをつくりだす。活字文化の中で生きる人々は、口頭でのやり取りは普通格式張らないものと考えているからである。声の文化の中で生きている人々は、口頭でのやり取りを普通格式張ったものと考えている。(p278)
書くことによってはじまり、印刷によって新たな強度の段階に進んだ言葉の逐次的処理sequential processingとことばの空間化は、コンピューターによってさらに強化される。
二次的な声の文化h、あ一時的な声の文化と極めて似ている尾とともに、きわめて似ていない。一時的な声の文化と同様、二次的な声の文化は、強い集団意識group sense をうみだした。マクルーハンの「地球村」ということばが示すように、二次的な声の文化において意識される集団は、一時的な声の文化において意識される集団とは比べ物にならないほど大きい。(p280
)一次的な声の文化で人々が集団精神を持っていたのは、他に代わるべきものがなかったからだが、われわれがいきているにじてきなこえのぶんかのじだいにおいてh、あひとりの個人として、社会的な意識をもたなければならないと感じている。これまで内面に向かってきたからである。(p280)


第6章 声の文化に特有な記憶、話のすじ、登場人物の性格

話のすじが基本

ここにきて初めてこの本において違和感のあった表記(それで無視した) 「話し」という表記について、以下storyを「話」とし、discoursr やspeechを「話し」と区別するという訳注があった(-_-;)

物語は、いつどこでも、言語芸術の主要なジャンルである;人間経験をことばにする基本的なやり、m話の筋を展開するというやり方


物語と声の文化

声の文化は、自分たちの知っている多くのことを保存し、整理し、伝達するために、非常に分量のある物語ないし一連の物語を作り出している。 声の文化における伝承の最も広大な貯蔵庫になっている。
物語が重要なのhs、多くの伝承を比較的まとまりがある長い形、かなり持続性のある形に固定できるから。繰り返すことができる形。


声の文化に特有な記憶と話のすじ

西洋における物語の道筋 (Scholes ando Kellogg 1966)物語のプロットに対する構造と手続き、クライマックスに向かって進む方はアリストテレスが戯曲の中に見出す種類のプロット(ギリシア戯曲は、書かれたテキスト)
「ホメロスのような叙事詩の詩人は急いで話に入り、聞き手をただちに事柄の核心into the middle of thingsに連れ込む」(ホラティウス『詩法』)(p290)
バークレー・ピーボディ『翼を持ったことば』(Peabody1975)一すじのプロット(フライタークのピラミッド)と声の文化に徳優奈記憶とがある意味で両立できないことを明らかにした。古代ギリシアの口承詩人の真の「思想」ないし内容とは、伝承され記憶された決まり文句やスタンザ(連)の型にある(p296)歌い手は、「情報」を伝えているのではない、歌い手は基本的には、奇妙にも公共的なやり方で思い出しているのである。特定の徴収のために、自分流にそれを朗詠rhapsodizeする。つまり、縫い合わせる。[歌は、kaって歌われたもろもろの歌の思い出なのである。
口承物語は、物語の中での継起と、物語が指し示す外部の世界での継起との正確な並行関係に対して関心をもtない。そうした並行関係を時代を先取りして探求したのはピーボディによるとサッポー(活躍は紀元前600年頃)である。サッポーの時代になると、もう書くことは、ギリシア人の心の枠組みを作りつつあったのである。(p300)


閉じられたプロット━旅の物語から探偵小説へ

一人の「作者author」となったテキストの作り手は、口誦の語り手がなし得るよりはるかに遠くまで意識敵な統御に従わせることができる。自己完結的、非連続的
長い話の筋を語り尽くすには、挿話の寄せ集めをとるというのが最も自然なやり方だった。その型を除き去るためにまず最初にやらなければならないことは、語り手の声を消すこと。 19世紀の小説家が繰り返す、「読者よdear reader」 という呼びかけは、小説家自身の意識のずれの調整の問題があったことを示す。(p302)
声の世界からやってきた亡霊;遍歴する主人公(遍歴は挿話を結び付ける糸となった(『ドン・キホーテ』『トム・ジョーンズ』・・)
口誦の語り手の主人公は、典型的には、その外面的な活躍によって特徴づけられるが、活字時代の主人公の内面意識にとって代わる(p305)
)「ミステリー」から探偵小説を区別する特徴(エドガー・アラン・ポー、ヘンリー・ジェイムズ・・)


「立体的な」登場人物、書くこと、印刷

世界の内面化interiorizationの進展、それは書くことによって開かれた方向(p311)
後期印刷時代ないしエレクトロニクス時代における、プロットを取りさった話は古典的なプロットの上に作られている。プロットが隠されているという感覚あるいは失われているという感覚があるからこそ効果を発揮するのである。(p314)
近代の深層心理学の発展は、戯曲とy創設における登場人物の発展と並行しているともいうことができるだろう。
近代の心理学と、フィクションにおける「立体的な」登場人物が、今日の人間の意識に対して、人間存在とはどのようなものかということを代表的に示している限り、人間存在への感覚は、書くことと印刷によって処理されているのである。(p316)
ことばの技術は、われわれの知っている事柄を、ある仕方で様式化する。(p316)


第7章 いくつかの定理〔応用〕

文学史

Foley 1980 文学史の研究は全体として、声の文化と文字の文化の二極性にほとんど気づくことなく進められれいる。
中世文学は、声の文化との関連で特に興味深い。それ以前にはなかった大きな文字文化の圧力ロマン主義運動は声の文化における「終わりのはじまり」を記している。(p322)
ウェルギリウス『アエネイス』一人称の書き出し(「甲冑とかの男のことをわたしは歌おう」)
ロマンス 民衆のバラッドは、声の文化の最後の花。
小説 レトリックをつかわない文体は女性の書き手、普段の会話に近い文体が、今日の小説のもととなった。(p325)


ニュー・クリティシズムとフォルマリズム

ニュー・クリティシズム:テクストに縛られた指向の最もよい例 ロマン主義運動と書くことと印刷という技術との間の密接でしかもほとんど無意識的な結びつきがはっきり示される。
テクストを無視して著者の伝記や心理の回解明にもっぱら力を注ぐというのが以前の批評の大勢だったので、テキストを強調したことには正当な理由があった。
日常語による主要な英文学批評としてはアカデミックな環境の中で推し進められた最初のもの。
しかし、  テクストはテクストの外部にその支えを持っている。


構造主義

クロード・レヴィ=ストロース(Levi-Strauss1970)口承的な物語を重視、構造主義は、口承的な物語を、書かれた物語の中で発展したプロットのような単位ではなく、抽象的なニ項対立的単位に分解した(p333)
二項対立的方法binarismを成り立たせるために、図式に適合せず、しかもしばしばきわめて重要であるような諸要素を無視しているという非難(p334) 話が組織だっているかどうかは「ブリコラージュ」(手仕事、その場しのぎで即興である仕事 『野生の思考』 1966)の問題ではない'p335)


テクスト主義者とディコンストラクション主義者

批評家であり哲学者であるテクスト主義者たち(後期のロラン・バルト、デリダ、フーコー、ラカンら):広い意味でフッサール的な伝統の上にある、自分の対象をロマン主義時代以降の後期の印刷テキストに限る、歴史的連続性にはほとんど関心がない。お気に入りの出発点は、ルソー。デリダが強調するのは、書くことは「話される言葉へのつけたし」ではなく、まったく異なった行為なのだということ。(p338)
デリダの結論は、文学は、そして言語それ自身もまた、それ自身の外部にある何かを「表彰するもの」でも「表現するもの」でもない。
しかし現実には、そして不可避的に何ものかを表象するものとして言語を用いている。
別の面からみれば、思考やコミュニケーションの過程を考えるときに、今日の多くの人々は、ほとんど疑いなくロゴス中心主義的なモデルに頼っている。その面からみるとデリダは、音声中心主義およびロゴス中心主義と彼が呼ぶものを解体することにおいて、マクルーハンがその有名なご託宣「メディアはメッセージである」によって掃き清めたのと同じ領土に人びとを招き入れるという役割を演じている(p340) プラトンは書くことの価値を低め、口頭での話を重んじることによって、音声中心主義である、しかし一方、彼は詩人を排斥する。
プラトンの時代は、辛抱強く分析を行い、長い連鎖を順にたどるような思考過程が初めて現れた時代であり、それは読み書きする力が、ある仕方でデータを処理することを精神に可能にしていたからなのである。
プラトンの音声中心主義は、テクストを通して見出され擁護されている。おそらくプラトンの「イデア」説は、最初の「グラマトロジー」だったのである。(P341)


  言語行為説と読者反応説

あと二つ、文学へのある特殊な接近が、声の文化と文字の文化の対照という点から再考を促している。
言語行為説(J・L・オースティン他)は次の三つの行為を区別する。 発話行為locutionary act、発話内行為ilocutionary act、発話媒介行為perlocutionary ad
再考されるべきもう一つの文学への接近:読者反応批評reader-response criticismu(ウォルフガング・イ―ザー他・・デリダとリクールも含む)サブ・カルチャーに属している読者は、なお基本的に声に基づくものの考え方の枠組みの中で活動しており、情報指向ではなく、演じ語り指向performance-oriented 読み書き教育にとっての実践的な意味、読者を十把ひとからげに見る性急な理論化のブレーキ(p348)

社会科学・哲学・聖書研究

全ての科学と輝学・・それらは素手の人間の精神によってではなく、書くという技術technologyを利用する精神によって生み出されたもの
聖書のテクストが声としてのことばの背景を持つということ


声の文化・書くこと・人間であること

「文明civilized」人は、「原始primitive」人や「野蛮savage1」人と自分を対比させてきた。誰も自分ことを「原始的」だとか「野蛮」とか言われたくない。レヴィ=ストロースは、「原始的」という言葉は、「書いたものをもたないwithout writing」という言いかたに換えられるべきだという。その言いかたにしてもなお否定的な評価であり、書くことによって培われたある種の偏見をうかがわせる。 より皇帝的なオーラルな「声の文化にもとづく」という言葉。
文字の文化は、書くことなしには想像もできなかった多くの可能性をことばと人間生活にもたらした。しかし文字を身につけた人間には決して作りえないような作品を生み出すことができる。声の文化は決して卑しむべきものではない。(p356)


「メディア」対人間的なコミュニケーション

コミュニケーショとは、「情報」と呼ばれる材料の何単位かを、ある場所から他の場所へとパイプラインのようなもので輸送することである、という考えを暗に含んでいる。私の精神は一つの箱であると考えられている。
人間的なコミュニケーションは、言葉によるものでも、言葉によらぬものでも、「メディウム」モデルとは次のような点で、最も基本的に違っている。つまり、人間的なコミュニケーションは、それが成立するためには相手の立場を先取りするようなフィードバックを必要としている。送り手はそもそも何かを送る前に受け手の立場にも立っていなければならないのである。(p358)何を言葉で表現するにせよ、」私は一人ないし複数の他人を既に「精神の上に」持っていなければならない。このことは人間的なコミュニケーションの持つ逆説である。
コミュニケーションは間主観的である 。 (p359)  


内面への展開━意識とテクスト

ヘーゲルの時代以降、人間の意識が進化するということに人びとはますます気づくようになった。人間であるということは、一個人a personであるということであり、したがって唯一の、複製できない存在であるということである。
高度に内面化された意識、書くということがなければ、意識がそうした段階に到達することは、けっしてないだろうと思われる。書くことは意識を引き上げる。
声の文化と文字の文化の相互作用は、人間の究極の関心と願望としての宗教にも関わりを持っている。人類のすべての宗教的伝統は、声の文化に根差した過去のうちにその遠い起源をもっている。そうした伝統はすべて、話される言葉を非常に重んじているように思われる。キリスト教の教義においては、声の文化と文字の文化の二極性が特にに先鋭化している。規律そきょうの教義においては、唯一神性の第二位格が「神の子」と呼ばれるばかりでなく「神のことばWord of God」とも呼ばれるからである。しかしながら神の書かれたことばすなわち聖書もまた存在している。神のことばのこの二つの意味は、互いにのように関わっているのだろうか。また、歴史における人間とどのようにかかわっているのだろうか。(p364)


  訳者あとがき

第1~3章 :声の文化に対するわれわれの偏見と、そうした偏見なしに見た声の文化の心理的力学がいかにわれわれの文化と異なっているか
口承文学―声で書かれたものという奇妙な自己矛盾
声の文化に即数r人間の言葉と思考のエコノミー:言葉が発話の後にどんな痕跡も残さないという前提
第4章 多くの道具立てとそれらを使いこなすノウハウを必要とする「書くという技術」が歴史の中に登場した時、われわれの意識の中で何が変わったか
第5章  視覚空間に移されたことばが、その出自である声の文化から切り離され、ある閉じた世界をsっそこに形成するようになるのは、印刷が行われるようになってから。
独自性、創造性、といったロマン主義的観念、テクスト間の相互影響【間テキスト性】の問題もあ、テキストが閉じられたものという観念があって初めて現れる不安であり、問題なのである。
第6章 言語芸術に現れた声の文化から文字の文化への移行を物語を例にとって説明
第7章  今日の文学理論や哲学理論に置いて、声の文化と文字の文化の問題がどのように取り上げられているかを概観。今日支配的な諸理論の多くが、いかに文字文化の偏見に浸されているかということが示される(by桜井尚文)


事項・固有名・書名索引
参考文献

途中です 

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