- byM's Bookshelf 2015 -

『中世とは何か』を読む

中世とは何か
J.ル=ゴフ (著), 池田 健二  菅沼 潤 (翻訳), 藤原書店 (2005/03)刊
Avec la collaboration de Jean-Maurice de Monetremy,A la recherche du Moyan Age(中世を探し求めて),2003
ジャック・ル・ゴフ(Jacques Le Goff, 1924年1月1日 - 2014年4月1日) 池田 健二 (1953-) ,菅沼 潤(1965- HP

内容(「MARC」データベースより)
商業・都市・大学・芸術の発生、時間観念の数量化、ユダヤ人の排斥など、現代に続く「ヨーロッパ世界」「西洋文明」は、「中世」に初めて誕生した。従来の時代区分と中世観を根底から覆し、「西洋史」の核心に迫る。

(表紙)

この表紙に驚きました。半身像よりなおその片目だけで、何事か、ただならぬことをいう・・

【目次】

好奇心の人、したがって探求の人であるジャック・ル=ゴフとともに中世文明を再訪する・・2002年2月~7月 文化ジャーナリスト ジャン=モーリス・ド・モントレミー

この本は、対談集というか、質問者がいて答える形。「スコラ(scola=ラテン語で「学校」) 的方法とは、教師と学生がある問題について議論することによってなされる。」というとおり・・、わかりやすくなる・・

Ⅰ 中世史家になる

この章のタイトル画(扉絵)は 聖マタイ(オーヴィルレのエボの福音書、エルベネー市立図書館蔵)→http://www.karakusamon.com/2015k/tyusei_koshi_5.htmlこちらの図57です 

なお、図版は原著にはなく訳者池田さんが選定したものという

『アイヴァンホー』の森から

1936年(12歳)にウォルター・スコットを読み、中世を発見した

暗黒の中世と黄金の中世

黄金の中世は暗黒の中世を裏返しただけのもの

過ぎ去ったものたち

9歳の時に見たモン・サン・ミシェル
15歳の時に見たサン・セルナン教会 ※

モン・サン=ミシェル
"Mont St Michel 3, Brittany, France - July 2011" by Diliff - 投稿者自身による作品. Licensed under パブリック・ドメイン via ウィキメディア・コモンズ.


口絵 図 1 モン・サン・ミシェルWikipedia

歴史学のほうへ

歴史家と原資料━文書史料の変遷

本=コデックスというのは、中世の誕生を位置づけるなかなかよい方法
12・13世紀の重要な転換期・・カロリング小文字体が消滅する。草書体と省略の時代
全ての歴史は、原史料と呼ばれる記録の生産と解読の中に存在している。(P47)
史料を作り出すのは歴史家

http://en.wikipedia.org/wiki/Portal:Middle_Ages

考古学史料、史料としての芸術作品

個人的な感性によって自己を表現しているにしても、同時に、そして第一に、時代特有の一定の約束事に従ってもいるのだという事実
注文主たちのレヴェル、彼らが表現したがっている者のレヴェルは本質的。 中世の芸術家は注文に応じて畑抱く職人でしかなかった。(P51)
集団的感性(サンシビリテ)

古い歴史と「新しい歴史」

19世紀が我々にもたらしているもの・・文化遺産の概念
天才ヴィオレ=ル=デュック(ゴシック芸術の厳格な理論家)中世の民主主義精神を見る
高等教育教授資格試験準備中に出会ったアナ―ル派、書く目の初期、私は運が良かった

史料に関する今日的問題

ミレニアムというのは、『中世においては、「非常に長い期間」という意味でしかなかった。


Ⅱ 長い中世

この章のタイトル画(扉絵)は シャルルマーニュ伝説(シャルトル、ノートルダム大聖堂)※ : 右下の馬のいる場面であった。

Cathedral-chartres-2006 stained-glass-window detail 01.jpeg
"Cathedral-chartres-2006 stained-glass-window detail 01" by Jjrodriguezp (Juan J. Rodriguez) - Own work. Licensed under CC BY-SA 2.5 via Wikimedia Commons.


 

中世とは何か

伝統的な区分が権威をもっていた=476年に始まり、1492年に終わる、というもの。
歴史的事実というのはつねに歴史家によって作られる、時代というものも、歴史的事実以上につくられたもの。時間の人為的な切り分け方は時に物事の正しい認識を損なうこともある (p70)
古代後期という名称は非常に重要
ローマ帝国はコンスタンティヌスによるキリスト教化までが「高haut」キリスト教に対する異教の逆襲が始まってからは「低bas」という。ところがあらゆる事実は、コンスタンティヌス(四世紀初め)からユスティニアヌス(六世紀)にかけて、権力がその絶頂にあったことを示している。
私は断絶という概念より、形象と転換という考え方を重視しています。(p71)

中間の時、そして「再生」

「中世」というのは17世紀の終わりまで存在しない。『ルネッサンス』という概念が完全に構成されるのは19世紀のことにすぎない

ルネッサンスと近代

われわれ中世史家にとって偉大であると同時にあまりありがたくない人物:スイス人ブルクハルト(ニーチェの友人)・大文字の<ルネサンス>を発明、亀裂を作りだした。彼の成功は大きな不幸だった。熱狂的な起源探し、起源ゼロ年

年代の問題

中世はラテン語の文化。司祭のおぼつかない口調で読まれる田舎っぽい怪しげなラテン語、人文主義者によって名誉が回復された貴族的ギリシア語
一連の変化が、一気に、すべての分野で、唯一つの場所において起こるなどということはあり得ない・・長い中世という言いかたをするのはそのため。

複数のルネッサンス

安易な歴史をでっちあげる道具としてのルネッサンスなら、それは敵
パノフスキーの仕事『西洋美術におけるルネッサンスと再生』(1960)以来、全ての歴史家は、唯一つのルネサンスではなく複数のルネッサンスが存在すること、そして「再生」の論理そのものが中世史と不可分の関係にあることを認めている。(p92)
中世が新しい出来事を讃えることはまずありません。新しさという言葉を耳にすれば、人は恐怖と嫌悪でいっぱいになったのです。彼らは自分たちが敬うべき権威の模倣者であると主張します。

カロリング朝ルネッサンス

これらの再生のうち最初のものは、明らかにカロリング朝ルネッサンス(8世紀末~9世紀)
シャルルマーニュをドイツ人にすることは19世紀のドイツ人にとって重要
ビザンティン帝国を二度にわたり二分した深刻な危機
聖画僧破壊(730-787)、(815ー843)→シャルルマーニュは論争を回避
聖画像は手段以下でも以上でもない―使用を選択→人間及び人間の形象に中心的価値を与える西洋美術が、この選択から生まれた。
また、ある重要な信仰心(聖母マリア信仰)の発達に大きな役割を果たした。(p96-97)
キリスト教の中心にある受肉の教義から見ると、非常に理にかなっている。髪あは人の姿を取って現れた、神はわれわれとともに生きた。
イメージはしばしば理論的な考察に先立つ。信仰はまずイメージによって、それから言葉によって表される。

十二世紀ルネッサンス

「世俗の」学校の誕生、(聖職者の対概念)、文学という言葉の誕生
「精神分析は告解室を横にしたもの」

中世の始まりと終わり

政治的には、中世は宗教戦争の過程で終わる
宗教という単語の誕生、中世には全くない概念
「世界観」としての中世を解体するのは、コぺルニクス(1473-1543)からニュートン(1641-1727)、
技術と社会生活の面を見ると中世は18世紀まで続く
イタリアの問題
ブルクハルト以来の伝統として、ルネサンスはイタリアそのものと同一視されている。
確かにイタリアでは中世の各時代において卓越したものが現れている。しかしイタリアには同時に重要な例外が見られ、この文明との間に常にはっきりとした対照をなしてもいる。(p109)
中世といえば西洋に限られるが、古代後期(帝政)は東のビザンティン帝国やイスラムの文明とも地続き・地中海全域にまたがる固有の文化が存在した。その上にやがて、様々な地政学的単位が築かれる。
西洋中世は、ギリシア・ローマの慣例と「蛮族」のそれとが少しずつ混じり合って生まれた文化変容の結果で、それはまたイスラムとの対決の結果

時代と世代

パストゥーローたち(十字軍遠征)・・救世主の到来への期待と結びついた宗教運動で、世代対立とも社会的対立(貧者と富者)と見ることもできない


Ⅲ 商人、銀行家、知識人

この章のタイトル画(扉絵)は 高利貸し(エヌザ、サン・ヴィクトール・エ・サント・クーロンヌ教会)St.Victor et sainte Couronnes の柱頭彫刻

Flickriver: Photos from Ennezat, Auvergne, France


source:http://www.tourisme-riomlimagne.fr/

歴史学と出版会

1950年代という特殊性 様々な学問的制度に属する人々が同業者に向けて書かれる研究= 研究の基礎、その肥やしのようなもの。 非専門的読者を対象に集大成を問う試金石。
新しいジャンル・・大学の論理とは違う企画立案の編集者たちの介入
問題の立て方を変える歴史家兼編集者の好例:ピエール・ノラ・・歴史の(物質文化から心性へ、直線的歴史から歴史人類学への)根本的更新の感覚(p123)

歴史家としての出発

師 シャルル=エドモン・ペランミシェル・モラ=デュ・ジュールダン

商人=銀行家の誕生

塩は当時、食料品を保存する唯一の手段
最初期の、そして最も基本的な商品について研究
私は常に抽象的な概念より人間を好んでいたので、題を変えてしまった
中世の塩の取引⇒『中世の商人と銀行家たち』(1956)32歳
商人=銀行家という新しい社会階層、11世紀までの通商を担ったのは修道士たち、そして「よそ者」(ユダヤ人とシリア人)、12世紀において商人たちが現れ、も一つの側面を持つようになった・・両替業カウンター(イタリア語でbancoバンコ)(銀行家)(p131)
価格差駅を利用、為替手形の発明、 信用取引との一体化、二つの業務は利子を生む、13世紀から4世紀に急速に広がる、商人たちが文書の専門家(知識人)になる

Chartres - cathédrale - Histoire de Joseph.JPG
"Chartres - cathédrale - Histoire de Joseph" by This photo was taken by Eusebius (Guillaume Piolle). Feel free to reuse it, but always credit me as the author as specified below. - Own work. Licensed under Public Domain via Wikimedia Commons.

口絵 図2 両替商 
族長ヨセフの物語を表現するステンドグラスの(左)下に、寄進者である両替商の同業組合員の仕事の様子が生き生きと描かれている 本文132P

The history of Joseph, on a nave window Cathédrale Notre-Dame de Chartres

宗教と金銭

商人たちの良心の問題、中世の教会では修道士たちの禁欲主義が支配的
商人達は、自らの活動をキリスト教化しようと努めた
高利貸しの問題(利子の原理に対する批判)(儲けが合法的なのはいかなる場合か)、投機は摘みとなるのか、時間の概念の問題
新しいタイプの修道士たち=「托鉢」修道士;田舎で行っていた孤高な活動を、社会の中枢へと移した、ドミニコ会とフランシスコ会、13世紀の初めには電光石火の成功、手本として図式的に書かれた大量の説教分=「例話」(エクセンプラ)

商業の正統化

金銭に対する不信感、それでも教会対商人という対立を見ることはできない。11、12世紀以降、金銭は徐々に正当化される(p138) と実の出現ン物質的な変化が社会的な変化を引き起こす、事実の重み
利子と高利は区別しうる、「商人=銀行家」が「眠りながら」儲けているのでは断じてない
有用性、国際性、芸術と文化の庇護者として頭角を現す;この庇護によってその罪を「償う」ことができる。
重要なのは、 その注文を受けて制作を行うものたちが少しずつ芸術家になっていくということ。ジョットの目覚ましい例=聖フランチェスコの像を描くにあったて、ジョットgが注文主に操られていかに表現を和らげているかということを、聖人の図像の研究を通して、キアラ・フルゴーニは見事にし示しました

Chiara Frugoni(1940)

「知識人」の世界

『商人と銀行家たち』と対をなすような本『中世の知識人』
研究方向の選択の上で、アンドレ・ブリアン神父に負っているものについて・・中世キリスト教がさまざまな職業に対してとった態度をもう少し広く研究してみてはどうかと勧めてくれ、聴罪司祭のために書かれた手引きに注意するように促してくれた

スコラ学と大学の形成

新しいものが胡散臭く思われていた時代において、彼らは何か新しいものをもたらしていました:知的労働
聖べルナールが十二世紀初頭に神のみに属するはずの時間を売ったと咎めていたのは銀行家たちだけではなく、知を金と引き換えに売っている学校教師たち。
有用性。新しい知的生活の基礎には推論と議論がある。スコラ(scola=ラテン語で「学校」) 的方法とは、教師と学生がある問題について議論することによってなされる。十三世紀もまた百科全書の時代。

知識人と社会

アントニオ・グラムシ;批判敵知識人と現行権力に仕える組織的知識人の二種類の区別
アベラール(12世紀)はデカルトよち5世紀も前に、アリストテレスの会議の方法を学ばねばならないと主張

都市の宗教家たち

毛織物商人の息子アッシジのフランチェスコFrancesco d'Assisi 1182年 7月5日 - 1226年10月3日)は世俗の宗教生活を広める
自分で決めた規則は自分自身と同士たちにしか強制しないという原則
権力の行使を嫌っていた
フランチェスコ会の使命は、支配することではなく、幸福感の高まりを促すこと
ペトルス・ヨハニス・オリヴィPetrus Johannis Olivi(1148?-1296)
フィレンツェの大司教聖アントニーノsaint Antonin(1389-1459)
金銭に関わる人は、自分が地獄に落ちる可能性のある人々のうちの最前列に位置していることを自覚している。それでも絶えず改悛し、慈善行為を行えば、赦しを得る望みは残されている。
中世の重要な発明である煉獄は浄化と償いの試練に耐えるための場所、富者は死後のための財産を煉獄の中につぎ込む。いうなれば、許容可能な富という概念が明確化する。      

経済と宗教

13世紀から15世紀までのスコラ学者たちは、カール・ポランニーの言いかたを借りれば、宗教に組み込まれた形でしか経済を認識していない。伸の経済学者16世紀のサラマンカのフランシスコ・スアレス(Francisco Suarez 1548-1617)などのイエズス会士たち
フランチェスコの不信感・学問の中に一つの財産形態と見る=本は高価なもの、学知を得る=所有、権力に近付く
贅沢の精神にあらがうには学知が助けになるかもしれないとフランチェスコは判断し、弟子のパドヴァのアントニオ案とに絵でPadoue(1195-1231)とは大学で学ぶことを許される・・フランチェスコの運命をめぐる数多くの皮肉の一つ
二つの社会階層の出現は中世文明を「標しづける」もの。中世はここにおいて、理性と信仰の、理性の諸形式と信仰の諸形式の間の均衡に到達し、われわれが西洋と呼ぶものが具体化する。(p163)
近代科学が引き起こした大革命にも関わらず、中世の偉大な精神たちは今も我々の思考を支配している。

口絵 図3 聖フランチェスコの肖像 
その生前に描かれたとされる貴重な肖像。澄んだまなざしにフランチェスコの独自な聖性が感じ取れる。スピアーコ、サン・べネデット修道院 本文p154

口絵図4 アッシジの市街
ミネルヴァ神殿から見たアッシジのコムーネ広場。フランチェスコの生家はこの広場の近くにあった(本文p156)


口絵図5 サン・フランチェスコ教会
フランチェスコの死後にアッシジに建設された大教会で、内部は壮麗な壁画で飾られているが、それはフランチェスコの聖いsンに反するものであった。(本文p162)

Ⅳ ある文明が形をなす

この章のタイトル画(扉絵)は キリストの降誕(サガスの板絵、 ソルソーナ司教区美術館 Solsona ,Museu Diocesa i Comarcal


source:Museu Diocesa i Comarcalhttp://www.museusolsona.cat/

文明としての西洋中世

著名なエトルリア文化専門家レイモン・ブロックが大変な仕事を持ち込んだ・・『西洋中世の文明』 1964

強力な一貫性のある一帯corps・文明・・ 6世紀から7世紀に生まれ、13世紀頃に完成し、17,18,19世紀の間に少しずつ解体していくもの
中世の間に貴族の世界の慇懃さとは別に、都市の作法が確立した

天地創造と受肉

西洋中世の文面を内面深いところで特徴づけているのは天地創造の概念
17世紀まではこの創造は救世主の誕生の4,5千年前までさかのぼるということで意見が一致していた。中世において五千年といった、今の数百万年と同じ。
始まりは堕落の物語(アダムとエバ)、族長たちとイスラエルの物語、救世主の誕生まで緩やかな回復が続き、イエスの生涯で人々の従うべき手本を示し、最後に、聖書正典全体の締めくくりとして、パトモス島のヨハネによる黙示録があらわれ、比喩と仄めかし満ちた表現によって最後の審判、それに続いておとずれるこの世の終わり、生まれ変わった世界における永遠の生、ついに実現する豊かなかけることのない生を思い描かせる。
私は、黙示録という形式を選んだことで、歴史の終末の思想が美しくはあるものの非合理的で韜晦の迷論に堕してしまったことを残念に思う者の一人です。(p171)

 天地創造という概念は、神と自然と人間についてのある考え方に結び付いている
考えかたの一貫性。一貫した組織、一つの階層的な世界観。領主権という支配(ドミニウム)を中心とした階層社会が対応
神は受肉し、人間は神格化する、双方向
革命家たちがあれほど嫌悪した「封建的おぞましさ」(旧体制)というのは実は1600年頃を起点に再編された政治体制に他ならない
旧体制に先立って存在した王権階級国家はこれとは性格が異なる。中世の王は臣民の上にたつにせよ、彼らの上に身をかがめるし、また臣民の方も王の高さまで昇っていくことができる

聖体の秘跡

中世のキリスト教は、人間の時間に対する関係、臭気や持続に対する関係を根本的に変えた
その上に、聖体の秘跡によって、受肉を具体化することが試みられる。ミサの度に、いつどこにおいても今ここにいる人々のもとへ神を招くことができる。深遠な理論とはまるで関係がない
生態とはキリストの身体であり、聖体のもとに、信者たちの身体はより上位の神秘的身体として一つになる。聖体の秘跡は復活(レズュレクシオン→転生の反意語)の先取り
中世の行列はすべての序列を上演する
祝日という例外的な時の中でも聖体祭は教会の長い努力の最後の作品
祭礼を基礎づけ典礼を組織するために西洋キリスト教のとった選択:顕示(ビザンティンと東方正教は不在=見せない)

キリスト教的時間

16世紀のトリエント公会議とグレゴリオ暦の導入にいたるまで、中世は、絶えず暦に手を加えていました。そのことで日常的時間の組み立て方、使い方が多く改変される。
世俗の時間においてはユリウス暦の枠組みから十二カ月を採用、しかし、これはユダヤ暦の借用によって著しい変化を遂げる:復活祭の日付を中心とする構造、週の概念
修道院のです』政務日課の時間で区切られた時間割
7世紀に音の出るカレンダー、つまり鐘を発明
13世紀の終わりに機械仕掛けの大時計。懐中時計=個人的時間が発明されたのは15世紀の終わり
修道士の時間割、商人の時間割、・・ 中世社会内部での制度の非一元性
教会による典礼年、十世紀以来、12月の第一日曜が始まり(待降節アドヴェント)

記憶と追悼

教会暦でだいじなことは、、イエスの生涯を記憶にとどめるほか、諸聖人を暦の中に導き入れること=記憶
ピーター・ブラウンが指摘するように聖人というのは特権的な死者
11世紀には、修道院が過去帳をつけ始めた(家系の確立、先祖が生み出された。万聖節(11月1日)説に加えて11月2日に死者を追悼することとした(「死者の日」)
最後の晩餐のよる聖体の秘跡を示しながら、イエスは「わたしの記念としてこれを行いなさい」といった。(ルカによる福音書22章19)
農村に残っていた異教的死者崇拝がキリスト教化され、信仰に転化する暦は、家族から人類そのものに至るまでのさまざまな水準において、生者と死者とを結び付ける.13世紀に、キリスト教的な暦の構築が完成
13世紀においては、個人的な読書の発達とともに、時禱書の普及が見られる.
これは一日のお勤めを時刻ごとに記述した手引書で、対象となったのは、字の読める人、したがって背軸の権力者、そしてとくにその婦人たち

時はどこへ向かうのか

中世全体にわたって千年至福説の伝統が存在しています
キリストの栄光に満ちた再来。千年王国の到来、最後の審判(口絵図7『ヨハネの黙示録注解』)
カラブリアの修道士フィオーレのヨアキムJoachim di Fiore(1132頃-1202)
アンリ・ド・竜バックが論じたところによれば、千年至福説とおいうのは歴史についてのある楽観的な見方に関わるもの、ロマン主義哲学の中に長くその後をとどめており、ヘーゲル(「歴史の終わり」)、マルクス(「最終闘争」において顕著
トマス・アクィナスの見解(存在と善)が万人に理解されるものではなかった。キリスト教徒はあまりかかわりのない主題が成功を収めている。 運命の主題です。 (口絵図8運命の車輪)
重要なのは、運命の車輪は節理の考え方と矛盾するということ。内的矛盾。
中世が円環的時間概念を持っていなければならなかった、運命の車輪はあったg、事実はそうではなった。典礼年というのは、gyく説的に直線的時間の観念を与えるための手段。教会は、人類はある始まりから終わりに向けて進んでいること、その終わりは再会ではなくて、ある別の世界における再生であること、その世界には最終的な、時間のない世界であることを、繰り返し言っている、 

煉獄の発明

よりましな、いずれにせよ一時的な地獄
教会が時間も空間もないと言っていたはずのまさにその場所で、ある種の時間、ある種の空間を定義しなければならなくなる
死者の滞在の期間とそこ(煉獄)で受ける苦しみは生者の代禱によって決まる

ヨーロッパの輪郭

アラブ=イスラムの登用は、街道と隊商キャラヴァンによって成り立つ、西洋は海を選択
(口絵図9 カタロニア図)
西洋中世には征服の意図は皆無。国土回復運動=再占有
ヨーロッパとは、まだ暗黙の、形成途上の、意識化されない概念

西洋世界の一貫性

キリスト教世界のミクロ空間(国家、都市、大公領、領主領地、司教区など)は継続的な遺産、中世文明に固有の一貫性を与えている基盤の一つ
中世全体を通じ、キリスト教世界は一にして多様、統一されながらも細分化されている・統一ヨーロッパと国民国家を対置して考えることは歴史の誤読
キリスト教世界において中心と周辺地域が撮り結んでいた関係
ほとんどの歴史家は、ヨーロッパが中心から周辺への拡散運動によって形成されると考えている。西洋中世入る=土=フランスとドイツのライン川沿岸地域に生まれ、南の国々に残っていた古代の名残と結びつきながら、北へ東へと広がっていったと言えると考えている。
わたしは、もう少し周辺地域にも気を配っています。それは 、西洋キリスト教のメッカであるローマが、もはや地中海のただ中にあるというよりはむしろ東と西を分ける境界に接しているから。善良な羊飼いが羊の群れを後に残していなくなった一匹を捜しに行く。
王権国家は、それなりの力を持った諸都市と両修正とで構成されている流動的な組織もの中でのいくつかの極となる。それは、 4世紀と5世紀を出発点にする、聖遺物崇敬が発達した時代。ユダヤ文化同様、ギリシア文化は死体との接触を大きな穢れとみなしていた。キリスト教徒とともに、すべてがひっくり返る
神との間の仲介者。(口絵図10 巡礼路)
聖地のネットワーク

封建制と領主制

宗教religionという言葉は16世紀にあらわれる、
封建制feodaliteが現れるのは17世紀、十字軍croisadeは18世紀
中世はジョルジュ・デュビィが見事に示しているように、土地に根差しています。中世は農村の時代です。その他の組織網の全体もまた、この農村的性質に基づいて構成されます。
11世紀の村には一つの中心があります。教会です。
ピエール・トゥベールがイタリアについて言ったインカステッラメント━城塞化、ロベール・フォシエが細分化と表現した現象が発展し、領主制が確立(支配、権威)
封土の体系すなわち封建制は権力の空白状態を埋める必要からとられた措置、封建制は権力体系の根本的再編成のための基本単位であり、国家の出現に欠くべからざる枠気味。封建制の最盛期は10世紀から13世紀まで・厳密な意味での封建制を中世全体と同一視することはできない。マルク・ブロック、ジョルジュ・デュビイ、ドミニク・バルテルミーも封建制時代と領主制時代という二つの時代を区別しています。
都市は、いくつかの農村ネットワークが交差するところに生まれる。
森、池

聖遺物の周りに教会がたち、信者はここに巡礼する。巡礼ルートはローマ帝国時代の街路網とは異なっていることが多く、それに接ぎ木して発達したのは一部だけ (p212)
聖地のネットワーク、聖遺物で場所を神聖化する
三つの大きな王権国家、都市権力、領主制の出現は、聖遺物と商取引の二重の ネットワークの発展の中で初めて明確になる。

法秩序の確立

ローマ法が成文法であるのに対し、中世の法は慣習と口承伝統に元基づいている
法制史家ガブリエル・ル=ブラによれば、体系化の時期は、中世が法律の分野で生み出したものの中で桃tt0尾も重要なもの、すなわち教会法(カノン)が出来上がる過程と一致しています。
ボローニャで生まれた『グラティアヌス教令集(デクレ)』(コンコルディア ・ディスコルダンティウム・カルヌム」)(調和コンコルダンス) 1140年頃
ヴァンセンヌの樫の木の下で聖王ルイ8在位Ⅰ226-1270)が裁きを行っているよく知られた絵柄

正統と異端

教皇グレゴリウス9世(在位1227-1241)
異端に対する強迫観念が中世キリスト教の最暗い側面の一つ
おそらくは一神教の論理そのものに関係する特有の論理
実践面で言うと、異端との戦いは諸権力の存在意義の整合性を検証する機能を果たします。権力に対する批判を排除するために異端の告発が利用される
一体をなすという中世の重要な企図の影の部分
真の人間主義が花開いたこの時代も、人類の逸脱行為のうちで最も悪質なものの一つを回避することはできなかった。
それは排除―死にまでも至る(p230)

Abbazia di Pomposa
"Pomposa" di Original uploader was Microsoikos at it.wikipedia - Transferred from it.wikipedia. Con licenza Pubblico dominio tramite Wikimedia Commons.

口絵  図6 カンパニーレcampanile エミリア地方のポンポーザ修道院Pomposaに11世紀に建設されたカンパニーレ、その鐘の音が周辺の農民たちに時をつけた。本文p188

長くなったので、ページを変えます。 『中世とは何か』を読むページ後半はこちら・・

 

» Back to Top
lastModified: 2015年